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概念的な世界と具体的な世界
以前にも触れたが、私も概念的な世界を、知識として理解することは出来るし、社会生活ではそのように振る舞っている。
もし目の前の情報を細部まで細かく全て受け取って処理していたとしたら、情報処理には多大な時間と労力がかかるであろうし、その場で大多数が取るべきであろう選択(行動)まで到達するのは難しくなり、日常生活はスムーズに進まないだろう。
通常、外部からの情報は、細部をぼかして大まかに把握できるよう、脳が勝手に選択し、処理をしてくれる。
(自分の好きな情報を、無意識に選択して、受け取っていたりもする。)
これは、発達障害者であっても、能力には個人差はあるだろうが、ある程度行われていると思われる。
でなければ、基本的な日常生活を行うのですら、かなり困難になるだろう。
最近、発達障害に関わらず、大多数の人々は、やはり概念化された世界で生きているのではないだろうかと感じている。
知能がある程度ある者は、言葉で形容し得るような概念的な世界に生きているように私には見える。
(もしかしたら、その状態は本人にとって不本意なのものなのかもしれないし、概念的と具体的の二重の世界に生きているのかもしれないが、そういったものは、外からは計り知れないものである。ちなみに、私も二重の世界で生きているのだと思う。)
だからこそ、人間関係で悩んだり、概念的な幸せに一喜一憂したりするのではないか。
自己を他者と比較して、安心したりするのではないか。
しかし、人間とは、本来概念的な存在なのであろうか。
社会は、概念的なものでのみ成り立っているのであろうか。
私にとっては、本質的にはそうではない。
これは、言葉で言い表すことは、大変難しい。
ただ、概念的な世界しか知らないなんて、つまらないと私は思う。
直接的、具体的な世界を感じられないなんて・・・。
でも、知らなければどうってことはないだろう。
人は、それぞれが皆、違う世界に生きている。
人間の数だけ、世界がある。
それらは、一瞬交わったように思えても、決して交わることはない。
生まれてから死ぬまで、人は自分の世界の中だけで、独りで生きているのだ。
外の違う世界を知りたい欲求はとてもあるけれど、私の世界も大事にしていきたいと思う。
しかし、皆が何の為に、何を根拠に生きているのか、私には大いに謎に思えてならない。
