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SAMと三項関係
時々ネット上で見かけたので、自分で調べて、覚書きとして載せただけである。
私は元々心理学や脳科学、また哲学の話が好きなのだ。
大学は経済学科だったが、心理学科か哲学科に入れば良かったと思っているぐらいだ。
そういう訳で、少しは本を読んだりして心理学などの知識も持ってはいるが、全くの素人レベルであり、しかも興味のある分野しか読まないので偏っている。
また、本来、難解な専門用語を使うことには抵抗があり、きちんと理解をしているのであれば、こうした公の場では簡易な言葉で語るべきだという持論を持っているのだが、引用が多くなったので、そのまま載せてしまっている。
もし仮に勉強をしようとしている人が目にした場合、私が意訳をした言葉よりは、そのものの借りてきた言葉の方が理解しやすいかもしれないと考えたせいもある。
(所々意訳もしてしまっているが。)
それと、心理学や脳科学の話など、頭から全て鵜呑みにするのは、危険であるとも考えている。
単なる仮説でしかなかったり、また学派によって違ったりもするし、こういう分野は真相はよく分かっていないことも多いのだ。
以上、どうでもいい前置きでした。
さて、この間載せた「自閉症とSAM」の記事だが、二日程調べた程度で載せてしまい、私自身よく分かっていなかった面があることに気が付いた。
記事を載せた後も、所々気付いた個所は、携帯からちょこちょこ修正していたのだけれど、新しく記事として載せた方が良いだろうと判断し、新たに記事を書くこととした。
私は一度夢中になると、それこそ寝食を忘れるほど熱中してしまうので、本当に体に悪い(笑)
生活上、あまりこの作業に時間を取る訳にもいかないので、この記事も後で訂正する可能性が十分に高いことを、前もって予告しておく。
(註:学術的に正確かどうかの保証は出来ない。所々他所からの引用あり。問題があればご指摘願います。)
(ぐだぐだと前置きが長くなってしまったが、ここからスタート↓)
以前書いたSAMについてだが、ここでの重要なポイントは「三項関係」なのだ、と改めて気が付いた。
(※知識のある方には当たり前の話であるか、または、私の論点が間違っている可能性もあるが、構わず続けることとする。)
以前にも触れたが、「三項関係」とは、「私」と「あなた」と「対象物」との三つの関係のことだ。
三項関係を理解するということは、「私」と「あなた」との間に「対象物(第三のもの)」を介した意味や意図、感情のやりとりを理解する、ということになる。
子供は9ヶ月頃になると、周りの音や物への関心が芽生え、特定の物をじっと見たり、手を伸ばしたりするようになる。
こうした行動に母親も気付き、同じものに注意を向ける(共同注視、注意の共有)ことにより、互いの意図を理解するようになる。
やがて、子供は物へ視線を向けた後に母親へ視線を移すことにより、自分の要求が実現することを学ぶ。
こうした三項関係の成立により、伝達行動が習得される。
また、この時期に「指差し」が可能になる。
そして、子供は母親の目の方向で何を見ているかを理解し、このことによって「名づけ」ができるようになる。
また、以前にも触れたが、母親がその対象物とどのように関わっているかを見て、対象物の意味を知ることとなる。
これは、自分の周りの世界に、意味と名前を与えられることになるのだ。
(ここでは例として母親にしたが、上記の話は父親でも祖母でも祖父でももちろん構わない。)
我々の周りのものは、全て言葉で意味が付けられている。
しかし、三項関係が築きにくい子供は、意味があまり習得出来ない。
そのような意味をあまり持たない子供は、今ここで起きていることが自分で分からず、常に不安の中にいる状態となる。
また、不安な状態であるが故に、精一杯の対処として、その場にふさわしくない行動を取ってしまうこともある。
さらに、同じ対象物を見て、相手が何を感じているかを言葉にして返すということは、「共感」しているというメッセージも含まれる。
コミュニケーションをする上でも、三項関係は重要な役割を担っているのである。
私は「SAM」というのは、すなわち「三項関係」を理解する為の機構であり、三項関係とは上記のような内容であると、理解した。
SAMが何故ちゃんと働かないのかは分からないが、やはり情報処理過程が定型発達とは違うからではないだろうかと思われる。
(一概に全く働かないという訳でもないと思う。)
また、三項関係の問題は、以前触れたシンボル機能の獲得の問題とも絡んでいるように思える。
ちなみに、この話は幼児期の話となっており、成人はどうであるのかといったことに関しては、私の推論でしかないが、成長過程において、定型発達とは違う習得方法で、三項関係を学習している可能性はあると思う。
脳は足りない機能を他の部分で補う能力があるし、通常とは違う成長過程を経ていても、不思議ではない。
また、ある程度の知能と言語能力を獲得していれば、学習していくことは可能であると推察される。
そして、これは一番大事なことだと思うが、全てが0か100%かというのではなく、スペクトラムというだけあって、個人差はかなりあるだろうと思われる。
個人の持つ能力や環境などによっても、かなり差は出てくるであろう。
物事は複合的に判断されるべきであり、一つの理論に当てはまらないからといって、単純におかしいという話でもあるまい。
