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定型という名の亡霊
『発達障害』ということを考える時、『定型発達』という言葉は付き物のように思う。
定型発達という多数派との比較により、少数派である発達障害という概念が、浮かび上がる訳だから。
だけど、一言に『定型』といっても、それはもの凄く曖昧で、幅広い概念だと思う。
そもそも、定型ってなんなんだ?
定型ってどんな人?
定型にモデルってあるの?
・・・詳細は謎である。
なんとなく、『定型』という名の妄想が、亡霊と化しているようにも思えるのだ。
もし『定型』の基本モデルがあったとしても、その通りの人なんて滅多にいないのではないかと思ってしまう。
発達障害者が、人それぞれ個人差があって違うように、定型発達者だって一人一人全然違うはずだ。
定型発達者が発達障害者に偏見を持つことがあるように、発達障害者も定型発達者に偏見を持つことがあるように思う。
以前にも触れたことではあるが、『定型』や『発達障害』というものに、あまりこだわり過ぎると、余計なフィルターを付けて物事を見てしまうことにならないだろうか。
つまり、個人を見るのではなく、まず『定型』や『発達障害』という、枠組みで見てしまう。
色眼鏡で見てしまう、ということ。
最初から偏見で見てしまうかもしれない、ということ。
私は、やはり、発達障害だから大変だとか、定型の人は楽々やっているのだろうとか、考えるのは好きではない。
定型だって、大変な人は沢山いる。
程度は違うかもしれないが、同じような苦労をしている人もいるかもしれない。
得手不得手が違うだけで、発達障害者とはまた違う苦労をしているかもしれない。
隣の芝生は青く見えているだけかもしれないのだ。
日本は自殺者の多い国でもある。
悩み苦しんでいる人々は、世の中に本当に沢山いるのだと思う。
私に関していえば、一応生活を送ることは出来ており、この先どうなるかはもちろん分からないけれど、十分幸せだと感じている。
こうして、自由に発言も出来るし、どこで何をするのも自分の意志ですることが出来る。
私は、精神的にも社会的にも、とても自由な立場でいられることを、心から尊いものであるとし、感謝している。
・・・と、どうも話がすぐ脱線してしまうな~。(どうもすみません(汗))
『定型』といっても、考える人によって、それぞれが微妙に違うものを想定しているのではないだろうか。
定型は、スーパーマン(ウーマン)じゃない。
定型だからって、簡単にこなしている訳でもないのかもしれない。
全ては、その人の胸のうちにある。
そして、発達障害者の方が優れていたり、幸せな面もあるかもしれない。
それは、個人個人の問題である。
優秀な定型像と比較をすれば、発達障害のマイナスだと思われる面がより際立って映り、必要以上に劣った存在だと認識をしてしまう可能性もあるように思う。
比較をする対象によって、程度は変化をするのだから。
『定型』だから・・・と型にはめて見るのも、一種の偏見であるかもしれない。
そして、もし差別に対して抗議したいのであれば、他の差別に対しても、鈍感であってはならないと思う。
そうでなければ、それは単なる利己主義なのではないか。
ちなみに、これは、あくまでも私の個人的な意見であり、正しいわけでもなく、誰かに促しているつもりも全くありません。
