2009年01月

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概念化についての考察

2009.01.31(15:13)
最近自閉症関連の記事を続けていくつか載せたが、勢いついでにまた少し言及してみようと思う。
以前書いた記事ともリンクする内容だが、今日は「概念化」ということに関連して思うところを述べてみる。
(註:学術的に正確かどうかの保証は出来ない。所々他所からの引用あり。問題があればご指摘願います。)

「概念化」とは、感覚的体験の中の個別的・差異的特徴を排除し、共通要素や本質的要素を抽出する(抽象化する)ことである。

この意味内容を見るだけで、言葉を変えただけで、前回触れた記事内容と同じような内容に言及していることが分かると思う。

自閉症者は、事象を頭の中で概念化することなく、ありのままに捉える傾向があるとされている。
情報が概念化(または言語化)されず、細部までもがありのままに直接脳になだれ込んでくるのである。

通常、概念化をすることが出来る定型発達者は、物事を見たり聞いたりした場合、すぐさまそれらの特徴を掴み(差異的特徴を排除し、共通要素を抽出する)、同じような部類にカテゴライズ出来る。

例えば、リンゴを見た場合、それは頭の中ですぐに概念化され、青いリンゴだろうと赤いリンゴだろうと、無意識に抽象的な「リンゴ」というカテゴリーに振り分けられる。

しかし、自閉症者の場合、リンゴは今見たリンゴそのものとして認識され、「リンゴ」という抽象化されたカテゴリーには無意識に振り分けられない。
理屈で、「リンゴ」というカテゴリーに入るのだと分かったとしても、感覚としては、そこにあるリンゴは、ただそこにあるリンゴである。

もう少し例をあげてみると、「柴犬」と聞いて、なんとなく柴犬の姿をイメージするのではなく、過去に知識として得た特定の柴犬を思い浮かべる、といった感じだ。

事物をデフォルメすることなく、そのままに受け止めるのだ。
よく木を見て森を見ずとも言うが、細かい違いも見過ごさずに(捨てていい情報だとは判断されずに)、認識されてしまう。

さらに言及すると、概念化の問題は、言語能力の獲得の問題でもある。
言語を使うということは、概念化がある程度必要なことだからである。

先程例にあげたリンゴを用いて説明をすると、リンゴを目で見た場合、通常は、頭の中で「リンゴ」という「言語」を用いて、そのリンゴという対象物は捉えられる。
つまり、リンゴはそのままの姿で頭の中で捉えられる訳ではなく、言葉というものを介して、頭の中に認識されるのである。
対象が言葉に置き換えられる訳だ。
これは、対象物の特徴を掴んで、適切な言語に振り分ける能力がないと出来ない。

ちなみに、概念化は、通常言語能力を獲得する以前にも、ある程度は形成されているものとみなされるが、言語を獲得することにより、概念化の形成はより拍車がかかることとなるのだ。

少し話が脱線するが、面白いことに、「直観像」という見たそのままを細部まで覚え写真のように思い出せる能力があるのだが、子供の頃にはあっても、大人になるにしたがって消えていくという。
すなわち、言語の獲得と平行して失われていくのである。

以上のことを踏まえて、程度の差はあるだろうが、アスペルガー症候群などの言語能力を獲得している自閉症者は、ある程度の概念化能力を身につけているのではないだろうか、とも推察される。
ただ、視覚認知力などの障害があると、指し示されている事物と言葉がうまく結び付けられず、概念化が出来ないこともあるようだ。

また、言語能力があるレベルまで達すると、心の理論のテストである「サリーとアン課題」に合格することが出来るようにもなるのだが、だからといって、社会性の問題が全く解決されるという訳でもない。
心の理論や概念化の障害は、単に発達過程における認知機能の未熟さの表れであって、根本的な社会性の問題は、また別のところにあるのかもしれない。
脳の仕組みは分かっていないことが多く、未だ謎が多いのである。

しかし、概念化の問題は、通常欠点とされているようだが、私は美徳とも感じている。
確かに、生活をする上で概念化が出来る方が、処理スピードも早いし、大量の情報に振り回されることもなく、スムーズに事を運べるとは思う。

だが、概念化をしないということは、些細な違いに気付いたり、思い込みや先入観を持たずに、新たなる視点で物を見られるということだ。
これは社会にとって必要なことだと思う。

違う視点があるからこそ、社会は活性化し、進歩をする。
これは歴史的に見ても明らかだと思う。
皆が同じような視点でいたのでは、大きな発展はなかなか望めない。
科学や文化の進展に、新たなる着眼点は必要不可欠なものであり、そのような視点は貴重な存在であると思われるのだ。
そこまで、大袈裟に考えなくとも、多少なりとも他の個人や社会への影響力はあると思う。
自閉症スペクトラムに居る者も、社会的に大いに存在意義があるものと、私は考えている。

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自閉症とセントラルコヒーレンス

2009.01.29(17:11)
セントラルコヒーレンス(中枢性の統合、中心的首尾一貫性)というのは、いろいろな情報をまとめて全体像をつかむ力のことで、自閉症者はこの能力が弱いとされている。

どういうことか説明をすると、まず、前回述べた自閉症者はなぜ心的状態を帰属出来ないかという問題とも絡むのだが、それは情報処理能力の問題だと思われる。
自閉症の場合、感覚などにも問題が見られることが多いが、それらもつまり、同じ問題ではないかと思う。
つまり、情報の選択能力機能が通常とは違う風に働いているということだ。
通常なら不必要だと見なされ無意識に省かれる些細な情報も、いちいち受け止めてしまうのである。

そうすると、情報は溢れ、目の前の処理に追われることになる。
通常なら大まかに把握され処理されるようなことが、一つ一つ違う物として捉えられ処理されていく。
つまり、事象を大まかに捉えてカテゴリー分けすることは出来ず、ホルダーはどんどん増えて、それらを包括することは難しくなる。
全体像がつかめないというのは、そういうことである。

以上まとめると、自閉症者は情報処理能力が通常とは違い、外部刺激を抽象化せずそのまま受け止めてしまう傾向がある為、特徴を掴んで大まかにカテゴリー分けすることが難しい。
その為に、自分自身の心的状態を把握するのが難しく、それが他者の心的状態の把握も難しくさせている。

相手の心理を思いやるには、自分を参考にするものだと思うのだが、自分で自分自身の心理が把握出来ていなかったり、自分の思考パターンが通常とは違えば、的外れな結果になると思う。

しかし、これはある程度学習が出来るものだとは思う。
ある程度の知能があれば、場の状況に沿った、一般的な心理状態を学習することによって、ある程度の適応は出来るだろう。
(たとえ、それらが本心ではなくとも。)

ただ、自閉症者は自己概念や思考などが通常とは違うように経験されているだろうから、無理をして適応障害を起こす可能性もあるけれど、その辺りは上手く付き合っていくしかないのではないだろうか。

人間とは成長する可能性を内に秘めた存在であり、たとえ失敗を重ねようとも、それらは経験として知識となり、知恵となって、最終的にはその人自身の貴重な財産となり得るものだと思う。
つまり、引き出しが増えれば、対応策も増えるし、繰り返して強化を図ることも出来る。

問題は、物事をどのように捉えるか、ということだ。
角度が変われば見え方は違う。
視点は一箇所のみではなく、多々あるのだということを常日頃から意識しておくことは大事であるように思う。

ちなみに、コーエンのデータによると、「心の理論」については、自閉症児のうち20%は正しく答えている。
(定型発達児でも15%の子供は正しく答えられない。)
また、自閉症者でも一定の社交性を発揮する者もいるらしい。
つまり、やはり個人差がある(多様性がある)ということだ。

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自閉症とSAMについて

2009.01.28(14:05)
サイモン・バロン=コーエンは、心を読むためのメカニズムとして
 意図検出器(Intentionality Detector:ID)
 視線検出器(Eye-Direction Detector:EDD)
 注意共有の機構(Shared-Attention Mechanism:SAM)
 心の理論の機構(Theory-of-Mind Mechanism:ToMM)
という4つの機構を提案している。

<ID>・・・物事から意図や欲求を読み取る。(9ヶ月ごろまでに発達。)
<EDD>・・・目に似た刺激を検出し、視線がどこを向き、何を指しているのかを読み取る。(生後まもなく。)
<SAM>・・・それらを統合して、行為者と対象と自己の間に構築されている関係を理解する。(三項関係の理解:定型発達児では1歳ごろに発達。)
<ToMM>・・・それを認識可能な“心の状態”として翻訳するという機能。(定型発達児では3、4歳で発達。)

そして、自閉症者は、IDやEDDを正常に持っていながら、大半はSAM、そして少なくともToMMに障害を持っていると結論付けている。

EDDは、主体者と標的の関係を理解するために必要なもの。
IDは、物体や生物を、それ自身の持つ欲求や目的などの心的状態と関連付けて理解するためのもの。
そしてSAMは、他者と対象、そして自分といった三項関係を理解するための機構であり、ToMM(心の理論)へのインプットとして必要不可欠なものである。
IDだけでは二項関係の理解のみとなり、SAMによって初めて、対象を通じて、自分と他者の違いを推論に考慮する必要性が出てくるのである。

詳しく説明をすると、自分と相手との関係を「二項関係」といい、たとえば「母親が子供を見る・子供が母親に見られる」「子供が母親を見る・母親が子供に見られる」といった、1対1の関係のことを指す。
「三項関係」とは、この1対1の関係に対象物が加わったものである。
たとえば、子供は母親の目の方向で何を見ているかを理解する。
1才頃になると、子供は母親が対象物を見ているかどうかを観察し、そしてその対象物と母親がどのように関わっているのかを見るのである。
対象物に意味があるのではなく、人の行為の中に意味があるということを知るのである。

たとえば対象物が鉛筆の場合、物体である鉛筆自体は、木で作られた棒状の物というだけで、それ自体に意味はない。
人の行為(鉛筆で物を書く)の中に、意味があるのである。

このような関係性に関心を持たない場合、「三項関係」は成立しにくい。
つまり、対象物は見えているが、人と対象物との関わり方を見ていないと、対象物の持つ意味を獲得することができないのだ。

そして、それまでの子供と母親だけの閉じた二項関係から、外側の対象を含めた三項関係へと変化をしていくなかで、他者の心を推しはかる心の理論が前駆体として現れていると考えられている。

つまり、SAMがうまく機能していないということは、ToMMもうまく機能しないということであり、他者の心的状況(信念、欲求、意図など)を推測出来ない、また、それ故に他者の行動を予測することも出来ないということになる。
ただ、他者が異なる視点を持っていることや、他者が独自の欲求を持っていて、それらが言動の起因になっているということが分かるのみである。

他者の信念を理解するというのは、前回述べたメタ表象を理解することにつながっている。

心の理論というのは、定型発達の場合は、4歳児ぐらいで合格するのだが、それ以前の子供が何故合格出来ないかというと、自分の思考(心)を正しく把握出来ていないからである。
(自己概念がまだ発達途中のため。)
つまり、自分の心的状態を帰属出来ないと、他者の心的状態も帰属出来ないということだ。

言い換えれば、自分の気持ちを概念化出来ず、個々の事象もそれぞれ違うものとして認識してしまい、大まかに抽象化をしてラベル分けをすることが出来ない。
自分の状態が自分で把握しにくい。
簡単に言うと、自分が今、楽しいのか、疲れているのか、悲しいのか、どのカテゴリーに入るのかが分からないということだ。

(→次回の「自閉症とセントラルコヒーレンス」に続く)

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自閉症とメタ表象

2009.01.28(13:53)
以前ネットで自閉症関連について調べていた際に得た知識を、覚書きとして簡単に載せておこうと思う。
 註1:素人レベルであり、学術的に正確かどうかの保証は出来ない。
 註2:ネットからの情報をところどころ勝手に引用させてもらっている。
 (後から加筆・修正する可能性あり。問題があればご指摘願います。)

自閉症者はメタ表象の理解に問題があると言われている。

“メタ”というのは、「高次な―」「超越した―」などという意味で、メタ表象というのは、表象の表象のこと。

「メタ」という言葉があまり馴染みの無い言葉でちょっと解りにくいので、例を出してみる。
例えば、「メタ言語」といえば、言語を定義するための言語、つまり言語についての説明ということになる。

分かり易く例えると、

 「コップ」とは「主にガラス製で円筒状の、飲み物に用いる容器。」

という文章の後半部分の「」部分がメタ言語にあたる。
(ちなみに、メタ言語が分からないと、翻訳は出来ないということになる。)

つまり、「メタ表象」というのは、表象(事実情報)の更なる表象となり、「表象の意図的・暗示的解釈のこと」、となる。

例えば、コミュニケーションの場合、話し手が発した言語(表象)が含む(裏の)意味や意図。
いわゆる“暗黙の了解”と言われるもので、話し手の真の意図を推察したもの。

メタ表象が分からないということは、すなわち「心の理論」が分からないということでもある。

「心の理論」とは、人間ないしチンパンジーなどが持っていると考えられる、他者の信念、欲求、意図といった心の状態を理解する(そして、その推論から行動を予測する)ことの出来る能力(知能)のことだ。
(心の理論の検査としては、「サリーとアン課題」「スマーティ課題」などが用いられている。)

また、メタ表彰が分からないということは、「シンボル機能の獲得」の問題とも関連していると思われる。

自閉症児は、自分と他者との社会的な相互作用から獲得される、模倣などのシンボル機能の発達が障害されるといわれている。

シンボル機能とは、ある対象、行為、思想について、それ自身ではないもので表すことが出来る能力であり、目の前に存在しない物も思い浮かべることができるようになる働きのことである。
(たとえば、茶碗に砂を入れた物を、白いご飯として想像出来る能力。)

シンボル機能が働くと、象徴遊びやごっこ遊びが出来るようになり、外の事物に反応する際も、いちいち動作を行うことなく、頭の中でイメージを浮かべたり言語を用いたりして、正しく処理出来るようになる。
つまり、現実世界へのオリエンテーションとしての役割を担っている。

シンボル機能が発達していないと、一つの言葉が複数の意味を持つことが認識できない。


(→次回の「自閉症とSAMについて」に続く)

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言葉のない世界に住む(2)

2009.01.27(13:40)
(言葉のない世界に住む(1)からの続きです↓)

私が、感じるこの「世界」は、知識で得たこの「世界」とは、ちょっと違う。

私は、そこにあるものを、ただ、そのものとして、感じる、のみである。
そこに言葉なんて、ない。

ただ、目の前のものを、言葉などで括らず、既成の意味も与えずに、そのまま、感じるままに受け取る。

そこに喜びがある。

私は、私が感じるままに、私が意味を与え、私が名前を付ける。

言葉は、ない。

私が感じる世界では、音と色と模様とリズムと、流れるような音階があるだけ。
細かい粒子のような粒が構成する、世界に、ただ、浸るだけ。

私にとって、本来の言葉は、ただ、音として存在する。
言葉よりも、音の響きの方が、よっぽど意味がある。

そしてまた、その感覚の世界に、私というものは存在しない。
他人も存在しない。
誰も居ない。

ただ、流れていくような色とりどりの美しい世界があるだけ。
素晴らしい旋律が流れるだけ。
私はその中に溶け込む。

そこでは、既成の「言葉」や「意味」はないのだ。

でも、この世界に住んでいたら、「現実」といわれているものに対応出来ないと知識として分かっているので、私は普段この世界を封印して、身に付けた社会的な「自分」というもので、生きている。
その「自分」は、自分だとは分かっているんだけど、本来の意味での自分、ともいえない感じもある。
ただ、嫌いじゃないし、社会に応対出来るから助かっているし、たまに自動運転モードで色々な雑用も片付けてくれる。
社会的な「自分」は、不器用だったり、色々な思い込みや、強迫観念なども持っていて、厄介な面もあるけれど、向上心も持っているので、学習も出来るし、成長も出来る。

そして、現実社会に対応しながら、私は、ひっそりと自分の中の感覚の世界に浸るのだ。
そこには、いつでも至福の喜びがあり、そここそが、私にとっての本当の現実だから。

(終わり)

ちなみに、この話を発達障害に結び付けたいという訳ではありません。
私は、単に離人症や、妄想、単なる思い込み、夢想癖などの症状を抱えているのかもしれません。

また、頭の中で空想をしている訳でもありません。
ただ、そう感じるというだけの話です。

この状態に何がしかの診断名が付くのかは、精神科医ではないので分かりませんが、精神的に何か問題があるか、または脳に何らかの器質的問題があるかして、診断名を下されたとしても、特に構いません。
どう言われようと、この感覚は変わらないし、私にとっては大事な感覚なので。
ただ、由来が分かれば面白いし、知りたいとも思いますが、この感覚のせいで生活に大いなる支障が出ている訳でもないので、これのみで診断を受けるのもどうなのだろうか(どう扱われるのか分からない)、とも思います。
(発達障害の診断は受けましたけど、発達障害にも精神疾患にも、偏見やこだわりはなく、診断名はどうであろうと、自分の状況の説明と対処法などが分かれば、有り難いし、それで良いと思っています。)

ところで、ただ、感じるだけの、この感覚の話を、皆どうして話題にしないのだろう。
感じていないのか、感じているのだけれど話す程の話題ではないと思っているのか、言葉に出来ないだけなのか、まったくもって謎なのです。
やはり、この感覚は少数派なのだろうか。
答えて下さる方がもしどこかにおられたら、ぜひ話を聞かせて頂きたいところです。
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言葉のない世界に住む(1)

2009.01.27(13:15)
上手く書く自信がないけれど、自分の感じる感覚の世界について改めて記してみようと思う。
昔からこういう話を言葉で表現しようとすると、いつも言葉にした途端に、うそ臭くなってしまって、がっかりするんだけれど。
大事な物を瓶にしまっておいたのを、蓋を開けて中から取り出した途端、酸化して違う物質になってしまったような・・・。
なんだか陳腐な使い古された言い回しとか、ありふれた表現しか出来なかったりもする。

まぁさて、前置きはこの辺にしてとりあえず始めてみよう。
(うまくまとめられなくて長くなったので、2回に分けてみます。)


正直に言うと、私は本当は、言葉のない世界に居たいと思っている。


子供の頃から、「現実感」というものがよく分からない。
現実感って、・・・何だろう?

自分はどこか違う場所にいて、目というフィルターを通して、映画でも見ているような感じがする。
または、巨大なロボットを、操縦席に座って操っているような感じ。

知識で得たこの現実世界と言われているものと、自分が感じる感覚とに、一体感がない。
(私は正確な知識の獲得に、失敗したのであろうか?)

たまにケガをしたりして痛みを感じると、生きているのだと感じる、私には、俗にいうこの世というものは、そんな感じ。
ある日、肩を叩かれて、「今までのは全部夢だったんだよ。」と言われたら、納得いくような、そんな感じ。


現実社会というものは、言葉で成り立っていると思う。
全てのものには、名前があり、言葉で意味が付けられている。

人類は言語の獲得によって、他の人間とより高度なコミュニケーションが取れるようになり、また、より高度な思考をするという能力を手に入れた。
それが、人間社会の大前提になっている。
言葉は、文化的、また歴史的背景を元にして、共通に認識され得るものとなっている。
(厳密に言えば、言葉の「意味」は、異文化までいかなくとも、個人間でも、環境や知識量の差異などによって、微妙な温度差があるのだけれど。)

私は、人類が言語能力を獲得する前の原始時代に生まれた訳ではないので、言葉の「意味」や、文化的背景などは、私が生まれた時には既に一定の方向性が決められていた。
そして私の誕生後も、それらの文化や、言語は、多数の人々の意識や無意識によって決められているようであった。

そこに私の意思はない。
私には、既に「こういうものなのだ。」という知識を得た上で、そのように行動をすべきだという学習による条件反射があるのみだ。
世の中とはそういうものだということは、よく分かっているし、世の中のやり方に沿った方法を取らなければ、いけないのだ、という強迫めいた考えが常にある。

でも、本当は心から納得している訳じゃない。
ただ、頭の中で得た知識が、そうするべきだ、と私を駆り立てているだけで。

(続く)
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昔書いた感覚の話(5)

2009.01.26(11:43)
今度は、診断前に書いた感覚の話です。
前の「昔書いた治療の感覚(3)、(4)」を踏まえた上での話となってます。
またもや長文で、マニアックな内容ですが、私にとってはとても大事な話です。
ドナ・ウィリアムズさんの著書にも触れています。

(ここからスタート↓)

またマニアックで多分に共感を呼ばないような話を書こうと思う。
何度か同じ内容の話は書いているのだけれど、また書きたくなったから書いてみたい。

以前の日記でも何度か書いたけれど、私は私の中に感じる"感覚の世界"を持っている。
そこはとても気持ちが良い幸福感に溢れた素晴らしい世界だとも書いた。

つまっている話とも重複するが、この間、調子が悪かった時に、意識して意識レベルのスイッチを変えた。
その時思ったのだが、なんというか、心身を流れている音階というか、トーンを変えるといった感じなのだ。
「トーンを変えよう。」と意識すると、意識が変わって、心と体の中に心地良い風が通り抜けて行く感じになる。
風通しが良くなる感じ。

そうすると、感覚が敏感になるというかより集中されて、意識されるものが全く違うものになる。
意識の階層が変わる感じ。

そして多幸感に包まれる。
私はドラッグをやったことがないからよく分からないが、もしかしたらドラッグをやったらこのような感覚になるのではないだろうか。
私の場合、天然ドラッグをやっているような感覚である。

でも、うるさかったり臭かったりする場所など、外部刺激が多いとその世界に浸るのは難しくなる。
蛍光灯が眩しい場所や、人込みとかもダメだね。
心身の調子が悪すぎても難しい。
以前、闘病中に脱水症状を起こして、痙攣を起こして危なかったことがあったが、その時は思考能力が著しく低下して、ひたすら「辛い。」としか頭に浮かばなかった。

でも本当に意識を変えると素晴らしい世界が目の前に広がるのだ。
物事は生き生きとして、まるで語りかけてくるようになる。
脳内に快楽物質が流れているような感じ。
社会的・表面的な意味などは全く意味を持たなくなり、もっと本質的な意味を帯びるようになる。
生きている実感を感じる世界。
例えようもないぐらい、美しく甘美な世界。
存在する喜びを与えてくれる世界。

他の人もこの感覚を感じているのかと思っていたが、多分にそうではなかったことに気付いたことも以前に述べた。
また、ドナ・ウィリアムズという高機能自閉症者の手記に似たような記述が出てくる。
彼女の感覚は私と似ているように思えるし、大いに共感が出来る。
ここで、その中に出て来る同じく高機能自閉症者である13歳のスーザンという女の子の言葉とそれにまつわるエピソードを抜粋して載せたいと思う。

(引用ここから)

「わたしの世界はとてもきれいだった。
 いろんな色と音でいっぱいだった。人は一人もいなかった。
 でもある時、お友達ができた。それでわたしの世界はなくなっちゃったの。
 五歳の時に、お友達がいろんなことをしているのを見るのがおもしろくなって、それから私の世界の方には行かなくなったの。それで、なくなっちゃった。
 でもあの世界のことは、今でもはっきり覚えてる。
 少し大きくなってからは、他の子たちと一緒にその世界を楽しもうとしたんだけど、全然わかってもらえなかった。皆わたしのことを、ばかだとかきちがいだとか言うだけで。それで、もうあきらめて、わたしも皆と同じようになろうって決めたわけ。」
かつて過ごした日々を振り返っていた時、13歳のスーザンは、まるで90歳の老女のようだった。彼女が本当に生きていた場所は、「彼女の世界」だけだったのかもしれない。色彩と音でいっぱいの美しい世界、意味も解釈もない世界、ただあるがままでいられる世界。そこをスーザンは、「普通にふるまう」ことと引き換えに、去ってしまった。そうして思い出以外のすべてを、葬った。
「あるがまま」の世界は、「世の中」でのことばを必要としない、美しく豊かな場所だ。
マルコム(※他の自閉症の男の子)は自分自身の世界は持っていた。だがスーザンやわたしが持っているような、「あるがまま」の世界の、溺れてしまいそうなほどの美しさややすらぎは、まったく知りはしなかった。
ものや自然や模様や色や音や感触やリズムの世界も、死んでいるも同然のものなのだ。

(引用終わり※途中省略あり。)

このエピソードに私は大いに共感したのだが、大体の人には理解不能の訳の分からない話となるのだろうか。
私は自閉症と診断されたことはないし、正直自分自身で発達障害傾向を感じることもあることはあるが、些細でありたいしたことはないと思っている。
また、実際に自閉とは関係のない友人で、似たような意識を感じる人もいる。
だから、発達障害(自閉症スペクトラム)だろうとなかろうと、感じる人は感じるのだろうと思うのだが、大体において皆はやはり感じないものなのだろうか。

何故感じないのか私には全く分からない。
正直に言うと、感じないことが少しかわいそうに思ってしまったりもする。
もちろん感じないからといって、不幸でもなんでもない。
逆に感じない方がいいと思う人もいるだろう。
私は感じることが楽しいし嬉しいから、そう思っただけの話である。
しかし、感じるかどうかで、生きる意味がだいぶ変わってくると思う。

ところで、こないだスーザン・A・クランシーの『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』という本を読んでいたら、このような記述を見付けた。


統合失調型の傾向の強さと空想傾向の強さには、総体的に見て、明らかな相関関係がある。
統合失調型の人によく見られた症状は、
「実際に起きるまえに夢で見ることがある」
「だれかがわたしのことを考えていると、それがわかることがある。」
「そばにある物体とひとつになったと感じることがある。」
また空想傾向の人は、
「音楽を聴いていると、没頭してしまってほかのことは気づかなくなる」
「薪がパチパチ燃える音を聞くと、想像力が刺激される」
「なにかを思いつくとき、言葉ではなくて視覚的なイメージで浮かぶことが多い」


全部ではないが少しあてはまるので、もしかして私は統合失調型や空想傾向なのだろうかと思った。
空想はめちゃくちゃ大好きで、小学三年生の時に趣味を書く欄に「空想」と書いた記憶もある。
私にとって空想に耽っている時間は、誠に至福の一時であった。

まあ、何であれ、あの世界感の素晴らしさは変わらないけれど。
しつこいけど、本当にどうして皆が感じないのか不思議だし、出来るなら是非お勧めしたいと強く思う。

また長文になりました…。
あと気付いたのだが、人を見てつまっているとかいないとかいう話も、その人の"トーン"を感じるというか、その人に対して音階や色などを色々と感じるということだと思う。
つまり共感覚ってことなのかもしれない。


(終わり)

共感覚も面白い世界だよね~。


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昔書いた治療の感覚(4)

2009.01.26(11:17)
またまた診断前に書いた感覚系の話です。
前回の話からの続きとなっております。
またもや長文で、一般的に興味の湧かない話だろうとは思うんだけど、構わず載せちゃいます!

(ここからスタート↓)

さて、昨日つまっているということを書いた。
少し補足すると、つまっている感じには無理をしている感じも含まれる。
それから、自分で流れを良くする場合、意識を変えると書いたけれど、意識を変えるというのは、日常生活の雑多なこと(今日の夕飯は何を食べよう、明日は何の服を着よう、あの問題はどうしようか、この用事を片付けてしまおう、などといった日常レベルの意識)から意識をずらして(考えるのをやめて)、感覚のみに集中するといった感じだ。
全身が感覚の塊になるというか、雑多な思考をやめて、ただそこに在るのみになる、といえばいいかな。

また繰り返しになるが、勝手に直感で感じているだけで、根拠とかは何もない。
妄想や気のせいといえばそれだけの話である。
たぶん普段テレビや実際に人を見て感じるというのは、ちょっとした表情や言動(雰囲気)を汲み取って無意識に感じているのだろうと思う。

またつまっていると表記したけれど、溜まっているでも他の言葉でも別に構わない。
私の感覚だと、つまっていると溜まっているは少し違うのだけれど。
実際よく治療をしている時に"溜まっているな"と感じたりする。

溜まっていると感じる時は、例えば黒っぽい嫌なうねうねした感じの物が頭や体の中に溜まっていて、滞っているようなイメージが湧く。
(手や視覚で感じる。)
それが治療をしていると段々沈んでいたのが浮いてくる。
最終的にはすーっと抜けて、浮いた感じになる。
溜まってから早く対処すれば早く抜けるが、慢性化して深く沈んでいる場合は一度では抜けないし、抜けるまで時間を要する。
しかしこれまた抜ける時はとても気持ちが良い。

科学的に説明するのは難しいが、あまり知識のない私が考えるに、体の中の電気的なものを感じるのではないかと思う。
まぁよく分からないし、妄想かとも思ったが(そういうことは往々にして起きるものだし)、治療を受ける側もシンクロして同じように感じたりするので、今の所あまり気にしないで楽しんでいる。
ちなみに痛い所や患部に通じている所が感覚的に分かるので、何故分かるのかと驚かれたりもする。
謎である。
ただし、万能ではないと思うし、常に当たっているとも思ってはいない。
またこういう話をするとオカルトめいてくるように思えて、オカルトへ反発心がある私としては複雑な気持ちになる。
よくは分からないが、共感覚や感覚過敏、体質など、少しは説明がつくようにも思えなくはないのだが、残念ながらそこまでの科学的知識は持ち合わせていない。
また蛇足だけれど、特に科学の信奉者という訳でもない。
懐疑論者でいたいだけである。

またつまっている人を見ると、こうすればつまりが取れるのになとかも勝手に思う。
それもイメージで捉える為、正確には言語化出来ない。
うーん、もっとここをこうして、うにょっとしてさーっとする、とか。
意味不明ですな(笑)。
あと、つまっていようがいなかろうが本人がそれで良ければ良い訳で、勝手な主張を押し付ける気は毛頭ありません。

しかし話が逸れるけど、精神と肉体は本当に深く深く影響しあっていると思う。
また気分と理性の関係や共感ということに対しても、そのうち気が向いたら自分なりの考察を書きたいと思っている。
(実は他にも書きたいことは山ほどあるのだけれど・・・。)
とりあえず、怠いし時間もあまりないのでこの辺でやめときます。
以上、またまたマニアックな独り言でした。

というか、我ながら胡散臭くて怪しい内容だと思う(笑)。
いや、幻覚や幻聴、思い違いや認識のズレ(?)なんて普通にある話だし、脳の機能的にはどうってことない話なんだよな、たぶん・・・。

(終わり)

ちなみに、気分と理性の関係や共感ということに関してはまだ書いていません(笑)
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ASなど他の方々が凄いと感じた話

2009.01.25(14:05)
私、普段他の方のブログや掲示板などは、あまり興味がなかったりするもんで、全くといっていい程内容をちゃんと見てなかったんですが、自分のブログも落ち着いてきたので、昨日ブログ村からいくつかのブログを見に行ってみました。

そしたら、ビックリ!!
ちゃんと全部見た訳じゃないけど、皆さん結構コミュニケーション取られてるんですねーーー!
すごいっっっ!!

なんだか、小学生の頃グループ分けであぶれた気分や、皆が自分の知らぬ間に遊びに行ってたのを後で知った気分を思い出して、ほろ苦い気持ちが込み上げました(笑)

ブログ村の上位の方しか見てないんだけど、見てるとアスペルガー症候群の方や、またはご家族にアスペルガー症候群がおられる方が多いように思いました。
アスペルガーの方ってコミュニケーションが苦手な方が多いと思うし、実生活では苦労されているのかもしれないけど、ネットで、文章でコミュニケーションを取れているのは素晴らしいことだと思いました!!
羨ましいです。

あ、でもこれも隣の芝生は青く見える法則で、皆さん人知れず多大な苦労をされているのかもしれませんね。

うーん、でも私はネットのコミュニケーションも全く自信が持てないので、なんだか凄いと思えてしまいます(笑)

私、発達障害とは関係ないサイトも持っていて、ネット歴もそこそこはあるんだけど、実生活でもネットでも、人と親密な関係になれたことってほぼないんだよね・・・orz
サイトで知り合いになっても、噂話とか疎くって、後になってから皆がメールとかでやりとりしてることを知ってビックリしたり。
知らぬ間に一匹狼みたいになってたり(笑)
(あれ?みたいな。)

なんか群れるっていうか、つるむってことが基本的に無いんだよねぇ。
なんでだろ。
人として魅力がないのかな・・・(´д`;)

特に女性とは、テレビや漫画とかで見るような親密な関係にはならないですね~。
(何故か男性の方が割と気が合う人が多いような・・・。)
昔っから淡泊な関係が多いです。
なんかいつもほっとかれキャラです。

あ、でも実は群れる(つるむ)の苦手で一人が好きだったりもするんで、ちょっと寂しいけどそれでいいのかもしれん。
集団でも、自由なほっとかれるポジションが好きさぁ(´∀`*)
・・・って言ってること矛盾してるか(笑)

てか、自分を正直にそのまんま出しちゃったりする所があるんで、なんか自分を飾ったり、適当に人に合わせるのも、どうしたらいいのかよく分かんないし、ストレスに感じちゃったりするし・・・。
難しいね~。

もし、気の合う人に巡り会えて、相手も自分を好いてくれたら、それはほんと奇跡的なことなんだろうねー!

まぁ旦那が話聞いてくれるだけマシなんだろう。
私、親友ってものがよく分からないんだけど、旦那に無理やり親友になってもらってます(笑)

あ、試しにADHDのブログもググったりして調べてみたんだけど、更新が止まってるとこ結構あって笑った。
私も実は自分のサイト数年放置しまくってる。
なんだか、まさに熱しやすく冷めやすいんだよねぇ。
ガーッと熱中するけど、そのうちすぐ飽きちゃうの。
困ったもんだ。

まぁ~、いいやっ!あはは~♪←こればっかじゃ~(笑)
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昔書いた治療の感覚(3)

2009.01.24(17:41)
また診断前に書いた感覚系の話を載せてみます。
治療の話って感じでもないんだけど、治療に関係する話だから治療の話ってことにしときます。

(ここからスタート↓)

よく人を見るとつまってるなと勝手に思う。
実際に会っても思うし、テレビを見ていてもよく思う。
当たっているかは分からない。
あくまでも主観である。

"つまっている"と言っても何のことやら分からないと思うので、うまく説明する自信は全くないが、なるべく分かりやすく説明しようと思う。

つまっているというのは字義通り流れが悪くてつまっている感じのことだ。
私は東洋医学の思想を全面的に信じている訳ではないが、東洋医学に『気』という概念がある。
一般的にも気という言葉はよく出て来るので、世間的にも馴染み深い言葉だと思う。
まぁ東洋医学的に例えると、気が滞っているという感じだ。
(私は『気』の概念を信奉していないし、何やら都合の良い言葉だと思っている。確かに体の中を流れているものを実際に感じるのだが、特に気だとは捉えていない。)

イメージ的には、これまた言葉通りだが、体の中や頭の中の流れが悪くてつまっている感じ。

治療をしている時にも、手先や視覚的にここがつまってるな、流れが滞っているな、と感じるのだが、普段人を見ていても勝手に感じる訳だ。
みんなそういうものなのかな?

私が普段「あの人つまってるね。」と度々言うものだから、旦那もつまっているという言葉を使うようになった。
やはり感じるものらしい。

つまっていると一言で言っても、つまり方には種類がある。
イメージで感じる為、言語化するには多大な苦労を伴うし、正確に描写をする自信がないのだが、色々なパターンがあるのだ。

形で表現すればいいのかな。
絵にした方が分かりやすいような。
うーん難しい・・・。

簡単に文章化すると、沈んでる感じとか、躁的な感じとか、混乱してる感じとか、固執してる感じとか・・・かな。
あとは音で言うと、音階やリズムが違う感じ。
イメージで捉える為、どうしても抽象的な話になってしまうな。

つまっている人を見掛けると、つまりを取ればいいのになと思う訳です。
もちろん一時的だったり、簡単に取れるやつから、取ってもすぐに戻ったり、なかなか取れないやつもある訳だけど。
性格的なものや環境の影響もあるし。

ただ、取り方さえ分かれば取れるし、自然に取れる場合もある。
自分で取れない場合は、手伝ってもらえばいい。

私の場合、取り方は簡単だ。
意識をちょっと変えればいい。
これまた抽象的表現だけれど、チャンネルを変えて、意識の階層を変える感じ。

より具体的に言うなら、静かな落ち着く場所で、目を閉じてゆっくりと呼吸をする。
そして体も心もふわりと浮くような軽くなる感じをイメージする・・・って感じかな。

実際には呼吸とか意識しないでやっているのだけれど、自分で観察してみると呼吸が遅くなっているんだよね。
目も閉じたり閉じなかったりだし、場所も別にどこでもいいんだけど(笑)。
意識を変えると感じ方が変わるから。

好きな音楽を聴いて気分が高揚する感じに似ているかな。
音楽を聴きながらやってもいいかもしれない。

たぶん詳しく知らないけど、瞑想とか禅みたいな感じなのではないかとも思う。
私はその手の類はやらないけれど、たぶん近いような感じもする。

私的にはイメージするというより、意識を変えると自然にそうなるというだけの話なのだけど。
私は脳内麻薬か快楽物質が出やすい体質なのかな、と思ったりする。
ただ、心が乱れていたり、体調がうんと悪い時はやってる余裕がないかな。
そういう時は外部からの手助け(刺激)が必要なのだと思う。
そして、治療はその手助けになる。

でもうんと楽になるので是非お勧めしたい。
・・・と言ってもこの話をして賛同を得られた経験が今の所ないので、私のやり方は意味不明で理解不能なのかもしれない。
精神世界が好きな人には通じるのかな。
私は精神世界よりは一応科学の話が好きなのだけれど。

でもつまっているのが流れると、本当に気持ちが良い。
治療している側も、これが最高に気持ちが良いのだ。
自分も一緒に気持ち良くなって流れる感じになるのだ。

みんなつまりが取れるといいのにね。
まぁつまってるのも時には必要なのかもしれないね。

(終わり)

つまってるのが取れると、ほんと体のトーンが変わって、軽くなって気持ち良くなるんだよね~(うっとり)
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ブログの改造に夢中になってしもうた

2009.01.24(14:44)
前にもここに来て下さった方はすぐ気付いたと思いますが、ブログのレイアウトを変えました!

基本的に面倒臭がりなので、最初にあまり種類を見ないで適当に既成のテンプレート(背景やアイコンなど基本的レイアウト)に決めちゃったんだけど、こないだ他の種類とか見てたら、なんだかめっちゃはまってしまいまして・・・。

まずは、テンプレを他の既成のやつに変えたんだけど、それから色々と細かいところを自分で改造しておりました。

しかし!
私、メタタグは少し分かるんだけど、スタイルシートとか全く分かんないんで、ちょっとてこずりました。
もうググったり、他のとこ参考にしたりしながら、試行錯誤でしたわ。

しかも、はまると止められない性癖なもので、ここんとこずぅーーーーーーっとやっちまってまして。
家事が後回しになっちゃって、でもいつもの手順でやらないと気が済まないから、そうすると夕飯の時間が遅くなって、寝るのも遅くなって・・・悪循環ですわ。

でも次の日寝不足でヘロヘロになりながらも、苦手なPCの前に張り付く私・・・。
アカン、懲りない(笑)
頭の中はもうブログのことでいっぱいいっぱい!
あぁぁぁぁぁ・・・。

とりあえず、大体こんなもんでいいかな、と落ち着いたんで、やっと離れられそうです。
どこか見にくい場所や、誤ってる箇所など、不具合がありましたら、是非指摘して下さいませ。

ちなみに、マイキャラに勝手に決めている、ハムスターで統一してみました。
あと、白い画面だと眩しくて見にくかったりするんで、背景色など目に優しい色にしたつもりです。

しかし、この我慢出来ずにやりたいことをやり続けてしまう習癖を、なんとかしないといかんね~、ほんとに。
今度、本格的に対策を立てるつもりです。
こんなんじゃ、生活が成り立たないし、マジ体壊すわ~!
あーでも、止められないのよぉぉぉ!!(笑)

あ、あと、ブログの説明のところでも書いたけど、ランキングのこと以前は正直ちょっと疎んじてたりもしてたんだけど、実際やってみると面白いもんなんだね~。
今まで、偏見持っててすみませんでした(笑)
クリックしてくれる方、いつもどうもありがとうございます!(*´▽`*)
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診断の功罪

2009.01.23(12:46)
自分が思った診断を受けるメリット、デメリットをあげてみます。
これは、あくまでも自分の場合や、ネットや本などを見て考えたことであって、一般的ケースではございませんのでご注意を。


まずはメリット!

1、対策が立てられる。

これはですねぇ、もうほんと今助かってます。
私、診断が出るまで、ADHDとかの対策本は読んでなかったんですよ。
自分の場合、未診断なのに症状が当てはまるからって勝手に自称したりするのは、なんか逃げてる感じがするし嫌だったんです。

で、診断が出てからADHDの対策本を何冊か買ったんだけど(ブックオフ活用しました(笑))、これがほんと助かってね~!
読んでビックリしたけど、自分のこと書いてあるのかと思うぐらい自分の症状と同じことが書いてあって、しかもその対策が載ってるんですわ!
ブラボォーーー!!(小躍り)

いや、未診断でも当てはまると思ったら、対策本読んでいいんですよ。
自分はこだわっちゃっただけなんで。

でも、昔から時間管理の本とか何冊か購入して読んでたんだけど、全然身につかなくてさ。
自分の場合、超初級編から始めなきゃいけなかったのね。
いきなり、中級とかから始めちゃいけなかった訳です。
勉強になりました。


2、社会での立ち居値が分かる

自分がただの変人なのか、それとも障害というカテゴリーに入るのかが分かります。
問題が、性格や環境などによるものなのか、脳の器質的なものなのかが分かるってことです。
(脳の問題だとしても、性格や環境とかは関係あるけれど。)
自分は割といい加減なもんでそういうことはなかったけど、きまじめで必要以上に自分を責めてしまう人は、心が軽くなれるんじゃないかな。


3、同じ障害の人に親近感や仲間意識が芽生える

なんとなく、仲間だ~って思えるし、そういう集まり(掲示板やオフ会、グループなど)にも堂々と当事者として参加出来る訳です。
(私は参加したことはほぼ無いに等しいんだけども。)


ただね、2と3は、診断の問題があるからなぁ。
発達障害って診断基準が一応あるけど、それを判断する医者のさじ加減も多少あるじゃない。

MRIなんかで明らかに分かるとかじゃないから、データをどう解釈するかでも違ってくる訳だ。
それに、患者と四六時中一緒にいる訳じゃないし、限りある時間内の限られた場面しか医者(&臨床心理士)は知り得ない訳だからね。
まぁ問診だけでなく、せめて最低限、WAISなどの検査や、幼少時の客観的証拠(通信簿や親の証言など)の検証はすべきだと思う。

この診断に対する考えについてはまたいつか改めて書きます。


次にデメリット!

1、周囲から、また自分でも、自分に対してラベリングをしてしまう

発達障害と診断をされると、自分も、周りからも、つい発達障害という枠組みで考えてしまいがちになるように思う。
下手をすると、発達障害なのだから○○出来ないのだって思い込んで、やってみる前に諦めてしまい、可能性を奪ってしまうこともあるんじゃないだろうか。


2、免罪符に使ってしまう

1とも被るけど、努力をする前に、発達障害なんだから出来なくて当たり前だと、つい言い訳に使いたくなってしまうこともあるように思う。


3、症状が増える

今までさほど気にしていなかったことも、発達障害の知識が増えるに従って、あれも当てはまる、これも当てはまるってやってるうちに、症状が増えて、何でもかんでも発達障害由来にしてしまうこともあるのではなかろうか。
5段階中、1ぐらいだったのが、気にした途端に4ぐらいに感じちゃったりして。

あと、似たような事とかも当てはめてしまったりとか。
水色も、藍も、紫も、青のカテゴリーに入れる感じで。


まぁつまり、あまり発達障害ということに囚われることなく、対策だけ活用させてもらい、あとは個人個人違う人間なんだから、その人その人の良さを活かして、生きやすくなるように、自分で自分を(そして出来たら周りからも)、サポートしていけたらいいなって思います。
メリット、デメリット書いたけれど、結局は自分が自分といかにうまく付き合っていけるかが、問題だと思うのだ。
自分で自分によろしくお願いしますって感じかしら(笑)
自分の中の暴れ馬をうまく手なずけて飼い馴らさないとなぁ。
ぅおっしゃぁーーー!!!頑張るぞぉ!!←気合い入れてみた。

てか、色々書いたけど、自分的には「メリット1」でもう頭一杯っす(笑)
ヽ(*´▽`*)ノ あはは~♪
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人と比べている限り幸せにはなれない

2009.01.21(22:53)
また説法かよ!?って自分でツッコミ入れたいとこなんだけど、思い出しついでに、中学生時代に自分が考えていたことを書いておこうと思う。
長文や、こういう話が説教臭いと感じて苦手な方は、読まないことをお勧めします。
(てか、長文嫌いな人は見ただけで読まないね。)
ちなみに、自分でも、過剰な自意識を感じてモゾモゾはします(笑)
なんだかね・・・。
ま、いっか(笑)

発達障害と診断される人にはよくある話かもしれないけど、私も物心ついた頃には、周囲との違和感を多少感じていた。
別に自分が変わっているとか思っていた訳ではなく、どうも興味のあることが皆と違うな、と感じていた。
自分がやりたいことや、好きなことが、微妙に周りと違っていた訳だ。
なんだか価値観が合わないのだ。

中学生の頃、友達と話が合わないし、大人は理解してくれないし、かなり絶望感を味わったりしてたなぁ。
(まだまだ若かったからねぇ。)
自分は思考が哲学的なんだと思って、周りの浅はかな大人達を心の中で馬鹿にしたりしていた。
(当時の私には、浅はかに見えたのです。)
その頃の私を救ってくれたのは本なんだけど、その話はまた別の機会に・・・。

でも、友達付き合いをするにはそうも言ってられないから、興味のないことでも興味のあるフリをしたり、勉強したりする訳だ。
そこで、私は私の道を一人でも行くんだ!という程私は強くなかった(笑)

でもさぁ、結局合わせようと努力しても偽装な訳だから、疲れるし、すごいコンプレックスがあったね。
与えられた価値観に何の疑いも持たずに生きてる人達に対して、心の中で馬鹿にしている面もありながら、ちょっと羨ましかった。

その価値観という物差しで計ると、自分はとても駄目な人間に思えたから。

・・・と、話が脱線するけれど、私は、皆知らず知らずのうちに、騙されているのだと思っていた。
生まれてからずっと、周りから自然に刷り込まれる既製の価値観を、何の疑いも持たずに受け入れることが出来るなんて、私には無理だったから、物凄いことに思えたし、逆に真実に気付かせない為に、目の前におもちゃのようなもの(価値観)をあてがわれていて、皆それに騙されているのだと思ったりしていた。
(価値観なんて時代や文化で変わるんだけどね。)

それか、みんな不安だから何かになりたがっているのかと思った。
それが「いわゆる女の子」とか「不良」とか、そういうカテゴリー分けされたものであり、そういうものに自分を当てはめることによって、自分の存在意義を保てたり、仲間意識を持てるのかと思っていた。
「不良」って何故かみんな同じような恰好をするじゃない。
正体不明な不安定な存在より、ブランドを着れば安心感を得られるんだろうなって。
中学生の私はそんなことを毎日考えていた。
(てか、不良って死後ですかね(笑))
まぁカテゴライズされたい心理ってどこでも見受けられるよね。

話を戻すけど、所詮、周りと比べてても意味がないんだな、とそのうち気付く訳です。
隣の芝生は青く感じるというように、比較するということは、比べる対象や意識によってかなり解釈に差が出る訳です。

例えば、自分が理想とする状況と、それに至らない今の自分の状況を比較すれば、きっと嫌な気分になるでしょう。
でも、たとえその理想に届いたとしても、更なる高い理想と比較すれば、満たされることもないでしょう。

これは何も、低いものと比較をして、自己満足せよ、って話ではない。
たとえば、恵まれない人々と比較して自分が恵まれている状態を自覚せよ、と言いたい訳ではない。

常に何かと比べていると、キリがないということだ。
上には上がいるし、下には下がいる。

比較するということは、自分の立ち位置や、自分の特徴が分かるという利点もあるが、それを幸福や自分の価値判断の基準にしていては、真から満足出来ることはないんじゃないかっていう話です。

う~ん、うまく言えないな(笑)

この考えは、当時読んだ本の影響もあって、大富豪だった人が孤独に死んだっていう話とか、生れつき難病で寝たきりでも、自分に出来ることをして満たされた日々を送っている人の話とか、考えさせられるものがあった。

いや、今更こんな話をして、多分大多数の人は、そんなの常識的に知ってるよってなると思うんだけど、結構無意識に周りと比べて一喜一憂してるのってよくあるしさ。
さっき書いたように、比較対象や意識によって大分差が出るから、社会での立ち居値を把握したり、成長した証に使ったりするのはいいと思うんだけど、自分の幸せや価値を他人との比較だけから感じ取るのもどうかな、と思った訳です。
あの人と比べて私は○○だから駄目だ・・・とばかりやってたら、幸福からは遠ざかるのではないかと思った訳です。
そんなことばっかやってると、他人の不幸もとっておきの蜜の味になりそうだし(笑)

てか、こういう話をしていると、じゃあ「幸福」とか「価値」ってそもそも何なのさ?となってしまうんだけど、長くなるのでまた割愛(笑)
あと、私の文章は脳内垂れ流しなので、ほんと長くて読みにくいと思いますが、こう書くのが性に合っていて、あまり推敲ばかりしているとキリのない世界に突入してしまったりするし、何せ我慢が苦手(衝動が強い)もので、申し訳ないのですが、ある程度は好きなようにやらせて頂こうと思います。m(._.)m
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最終的には自分が頑張るしかない

2009.01.21(10:38)
昨日、昔のことを書いてたら、連鎖して色々思い出したんで書いてみます。

中学生の頃、相変わらず友人関係での苦労もあったが、部活で先輩にかなり睨まれていて、毎日のように呼び出され、態度が悪いと注意を受けていた。
当時、先輩は威張るものだという風潮があったということもあるが、私自身にもかなり原因があった。

その頃、校外でも先輩を見掛けると、見えてから消えるまで、挨拶を連呼しながらひたすらペコペコと頭を上下し続けなければならなかったのだが、私は嫌だからやらずに、見えていないふりをして無視していた。
注意をされると、「目が悪いから見えなかった。」(私は本当に目が悪く、眼鏡をかけていた。)と言ってごまかした。

また、朝練は朝起きられないので全然出ないし、間違いを見付けると先輩にも指摘したりしていた。
部活の練習時間にも遅刻ばかりしていた。

まぁ当然「生意気だ」ということで、かなり目を付けられていたのであります。
(他にこんな人いなかったし、目立っただろうな。)

毎日のようにロッカルームなどに呼び出しを受けたり、視聴覚室の机に赤ペンで「○年○組の○○ムカつく」と書かれたり、部活に行くと私の道具にゴミが入っていたりした。
用具室で先輩全員にぐるっと囲まれてミーティングも受けた。

でも、私ってば懲りないんだよねぇ・・・。
ミーティングを受けて一週間ぐらいは朝練出たんだけど、その後また出ないし、机の落書きはすぐに消して、ゴミを見付けた時は、人差し指でピンッと飛ばしたら先輩の方に飛んでった(笑)

いや、同級生に虐められるよりマシだと思ったし、家に帰って好きなことしてるともう忘れてんだよね(笑)
子供の頃から凹んでも、割とすぐに立ち直るもので。

しかし、そんなことが続くとさすがにおかしくなってきちゃって、教室や道で、理由もなく急に大泣きしたり、かと思ったら大笑いしたりと、感情が激しくなってコントロール出来なくなってしまった。
自分で精神的な病気かと思って医学書を読みあさったりしたけど、どうも違う感じだし、自分が中途半端に感じられて、普段から色々と息苦しかったから、どうせなら狂ってしまえばいいのに、と思ったりした。
周囲に溶け込めない中途半端な立場の自分が、とても嫌だったのだ。

でも、その頃強く実感したのがタイトルの言葉だ。
うだうだ悩んでぐちぐち考えてても、最終的にはやるしかない!自分が頑張るしかないんだ!と、悩んだ末に思ったのでした。
考えてたって何も変わらないし、結局色々考えても、最終的には自分が頑張るしかないってことになると思うのだ。
(他力本願は別として。←でもこれも自分が全く頑張らねばならない訳ではないと思う。)
もちろん頑張る方向は考えた方がいいけど、ある程度考慮したら、あとは実行あるのみ!だ。
(精神論を唱えるつもりは毛頭ないんだけど、人に嫌われてもいいっていうのと心情的に似てるかな。考慮の方法は良い方法もあるけど、長くなるので割愛。)

それからというもの、ちょっと強くなれたような気がするし、この言葉も何かあった時に思い出す、役に立つ言葉となりました。
なんか、うぉーっ!やるぞーっ!おりゃぁー!って気合いが入る。

・・・って単に私が駄目人間だということを露呈している話になっているかも(;´д`)
今考えてみても、我ながら部活の態度は悪かったとは思う。
(一応合わせようと努力はするんだけど、結果的にマイペースを貫いてしまう。)
実は小学生から高校、社会人に至るまで、大体先輩には目を付けられて嫌われるんだよね。
でも、中学の一部の先輩とはこの後、「お前面白い」と言われ、可愛がってもらえるようになりました(笑)

ちなみに、頑張るって言葉は「ベストを尽くす」って意味で考えてます。
理想とする高い目標を掲げて実行しようとするのではなく、その時自分が出来る範囲のことを、その時の状態でベストを尽くせばいいってことです。
ある程度適当じゃないと疲れちゃうからね。
ケセラセラが好きさ~♪ヽ(´ー`)ノ
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人に嫌われても良いのだ

2009.01.20(10:31)
これ(タイトル)は小学三年生の時に悟ったことです。
こういう風に思えるようになって楽になり、人付き合いが出来るようになりました。

それ以前の私は、幼稚園でも小学一、二年生でも学校で友達が一人もいませんでした。
幼稚園では、壁にもたれて皆を観察しているだけで仲間に入らない子であり、小学生になっても帰りはいつも一人で帰っていました。

ただ、私は一人でいるのが好きなので、意に介していない面もあり、幼稚園でも特に嫌がる様子もなく、小学校から一人で帰宅をする私に、母がどうしてかと理由を尋ねると、「誰にも誘われないから。」と答えたそうです。

しかし、学校という所は、友達付き合いは避けられない問題であり、やはり仲間に入りたい、一人では寂しい、という思いもありました。

しかし、どうしたらいいのか分からない。
周りを観察をして、皆がどうやっているのかという、ある程度の知識を有してはいても、実際にいざ自分がやるとなると難しい。

試行錯誤の上、私は開き直りました(笑)
相手の反応をビクビク伺っていると、どうしても不自然な態度になるし、疎まれたり、下手をすると虐められる対象になったりしてしまいます。
何より、自分でもとても疲れるし苦しい。

そこで、私は気付きました。
「全員に好かれなくてもいいんだ。別に嫌われてもいいんだ。不安がっていないで、ぐだぐだ考えずに思い切ってやってみよう。」

それから初めて友達が出来たのでした。
これが、人付き合いの初めの一歩となり、私にとってタイトルの言葉は意味のある思い出深い言葉となりました。
その後も色々と苦労はしたけれど・・・。

ちなみに、「人に嫌われても良い」というのは、嫌われるようなことをしてもいいのだという訳ではもちろんありません。
そんな人は間違いなく嫌われます(笑)
必要以上に人の反応を気にして萎縮しないで、良いと思ったことを思い切ってやってみる、ということです。
失敗したら、反省して、またやり直せばいいのです。
結構人は自分のことなんて、自分が思う程気にしていないもんです。
為せば成る!あとは習うより慣れよ、かな。

時には嫌われることもあるけど、自分を受け入れてくれる人も必ずいるもんなんだよね(´ー`)

あ、偉そうに説教口調になってたらすみません。
そんなつもりはないんですけど、すぐ調子に乗る性格なもんで(汗)
人付き合いの対策話はまだ続きます・・・。

(ちなみに昔は人見知りがとても激しく人付き合いが全く駄目だった私ですが、今は人見知りもあまりせず、ある程度社交的になっています。)
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昔書いた感覚の話(4)

2009.01.19(21:55)
恒例の(?)診断前に違う場所で書いた感覚の話です。
過去の日記なので、過去の私な訳で、今はちょっと違ってたりすると思うし、前後の話が無いので解りにくいかもしれないけど、面倒だし過去の記録ということでそのまま載せちゃいます(´ε`;)ゞ
もし読もうという方がいらっしゃいましたら、適当に流し読みして下さいませ。

(ここからスタート↓)

最近発達障害の話をよく書いたけれど、私は別に発達障害というカテゴリーに入りたい訳でも、発達障害そのものに特別に興味がある訳でもない。
私が一番興味を持ち、また大切に思っているのは、自分の中の内的世界感覚である。

以前内的感覚の話は書いたことがあるが、私は自分の中に感じる確固とした世界を持っている。
通常、周囲に聞いてもそういうことはあまりないらしく、今までの人生で大体似たような世界(感覚)を共有しているのではないかと思えたのは、大体自閉症などの発達障害の人である。
発達障害以外の人でも感じている人がいるだろうと思うのだが、今のところ現実でも本でもネットでもほとんど巡り会えていない。
(発達障害の人でも、実際に会ったことはなく、本などで知ったのみである。)
ただ、幸いなことに健常(定型発達)の人で、ちょっと似たような感覚を持っている友達(話が通じる人)が一人だけいる。
その人とはある程度話が出来るし、理解し合えるので嬉しい限りなのだが、根本がちょっと違う感じなのだ。

よく分からないが、私はただ単に右脳的能力(これは学術的に正確な記述ではない)が強いのかもしれない。
よくその人とも話していたのだが、頭の中でイメージで捉えたり考えたりするので、言葉よりも、擬音で表現してしまいたくなるのだ。
例えば頭の中で、色や形、音階やリズムで思考が表現されている場合、それらを言葉に変換して言い表すのは非常に困難な作業となる訳だ。
たまにテレパシーではないけれど、宇宙語で話したいと思う時がある。
(『宇宙語』という表現もいかがなものかと思うけれど。)
長嶋茂雄名誉監督がよく擬音を使ったりするのと似ているのであろうか。
(今調べてみたら、長嶋監督がADHDだという説があるらしい。面白いね。)

しかし、私にとって、この独自の世界(感覚)を自己の内部に持っているということは、とても幸せなことだ。
私は自分の中に、明確なる根本的な存在意義を持っているということだ。
私にとって、社会的な名誉や物欲などは、この感覚世界からすれば本質的意味を何も成さないのだ。
この感覚に身を任せ、その世界に入ると、とても幸福であり、気持ちよく、心地良い。
私は、生きる根本的な意義を、そこに見出している。

大体において、皆は何を理由に、何を目指して、何を支えに生きているのだろう。
社会通念的に推測は出来るけれど、私には謎に思える。

生きることは私にとって、存在するだけでとても素晴らしいことに思えるし、また存在することに意味がある訳で、それ以上でもそれ以下でもない。
この今の一瞬を愛しみたいと思う。

ここからは余談であり、うまく表現する自信がないのだが、音楽というものは、この内面から溢れ出す感覚を表現しているのだと思う。
内部に自然に湧き出るこの思い(イメージ)を表出しているのではないか。
音楽は自然に出て来るもので、作ろうとして作り出すものではないのではないか。
分かりにくい表現かもしれないが、『あの世界』を体現しているのではないか。
私は音楽の本質はそういうものだと思っているので、決して否定している訳ではないのだが、自己の内部に溢れ出すものが特にないのに、お金や名誉や好きだからという理由だけで音楽を作っていることへの意義が実はあまりよく理解出来ない。
(もちろん好きでやりたければやっていいのです。これは私の中での問題であり、他の人の問題ではないのだから。)
これは他の芸術にも感じていることなのだけれど・・・。
要は、私はあの世界(表現出来ない)を感じさせてくれる作品が好きなのであろう。
この話は気が向いたらまた今度書きたいと思う。

ちなみに私は発達障害者を地球に住む異星人、また定型発達(健常)者を地球人とするラベル分けは好きではない。
たまにそういう枠組みで分別をしているケースを見かけるが、私は多数か少数かというだけで、皆地球人だと思う。
そういう屁理屈で分けている訳ではないのだろうとは思うけれど。
ただ、私には皆地球人として見えるし、個体差があるだけにしか見えないのだ。
人間、一人一人違うから素晴らしいし、面白いのだと思う。
皆が違う人生を生きていて、違う世界を見て、違うように感じ、考えている。
一人一人が己の世界で生きているのだ。
たとえ発達障害とカテゴライズされようと、その中でもまた一人一人違うのだ。
そして、その世界が何かの機会に交じり合うところで、また面白みが生まれるのだと思う。
当たり前のことだが、例え同じようなタイプに見えたとしても、この世に同じ人間は決していない。
そして、やはりそれはとても素晴らしいことだと思うのだ。

(終わり)

相変わらず長文で、話があちこち飛んでいて分かりにくい文面だよね(汗)
発達障害については、その後色々思うところもあるので、また別の機会に書きたいと思います。
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【対策】遅刻

2009.01.19(00:21)
(※1)一連の対策は、私の経験と今までに得た知識から立てたものであり、決して万人向けという訳ではありません。
(※2)この対策は、私自身実際に実行出来ておりません。これは、そんな自分に対して自戒の意味を込めて書いています。

さて、自分はかなりの遅刻魔なんだけど、自分の経験とADHDの書籍などから得た情報から、自分自身への覚書きとして、いくつか対策を載せてみる。
他の方には既に当たり前の事柄かもしれないけど(汗)
まだ勉強&模索中なので、今後内容は変わるかもしれません。

1、まずは気合いを入れる!

「ちょっとくらい遅れてもいっか~。」などと思ってはいけない。
また、「遅れるかも。」と諦めてもいけない。
「絶対に間に合う!」と自分を心から信じて、気合いを入れるのだ!
たとえ遅れそうでも、火事場の底力で頑張る!やれば出来る!!

2、自分がどのくらい支度に時間がかかるのか把握しておく

これが分かってないと、どのくらい前から支度を始めればいいのか分からないので、普段からどのくらい時間がかかっているのかを把握しておく。
その際、わざと10分程余裕を持って把握しておくのが良い。
(気が散ったりする対策の為。)

3、時間表記のあるスケジュール表を使う

先々の時間の把握が苦手な場合、時間に余裕があっても時間配分が分からず遅れてしまう。
頭の中が真っ白にならない為にも、面倒だが時間表記のあるスケジュール帳などに、あらかじめ時間配分を決めて書き込んでおく。
(自分で適当に紙に書いても構わない。)
ある程度慣れて習慣化したら、書かなくても出来るようになるはず。

4、タイマーを使う

つい、違うことに気が向いて時間のことを忘れない為にも、支度をしなければならない時間にタイマーが鳴るようにセットをしておく。
携帯のアラーム機能が便利。

5、前日に持ち物や着る服を用意しておく

事前に持ち物や着る服を用意しておき、当日慌てないようにしておく。
持ち物は鞄にしまい、着る服はハンガーにかけたりしておく。
忘れ物防止にも役に立つ。

6、出掛けることだけを考えて最優先にする

ついやりかけのことや気になっていることが目につくと、そちらをやってしまい、肝心の出掛けることを忘れがちになってしまうので、たとえ気になってもひたすら我慢してやらず、出掛けることだけに集中するように頑張る。
(我慢するコツについてはまた別に対策を立てる予定。)

7、時間はあるのではない、無いと思え!

時間感覚があまりない為、つい時間があるように錯覚してしまうが、時間は無いものなのだと心掛ける。
たとえ時間に余裕がある時でも、常に時間とは有限であり、油断すると無くなるものであると肝に銘じておく。

8、周りは許してくれても自分は許さない

遅刻が許される環境だとつい調子に乗って遅れがちになる。
遅刻は絶対しないと自分自身に誓うこと。
また、遅刻をしなかったら自分を褒め、何回か達成出来たら自分自身に簡単な褒美を与えるなどする。
自分は遅刻をしない人なのだ!と自分自身で思い込もう。

以上、あとは実行あるのみ!
(どなたか何かいい案があったら教えて下さい。)
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昔書いた治療の感覚(2)

2009.01.18(14:10)
(1からの続き)

ただ、もちろんこの感覚というのは、あくまでも主観であり、実際にあっているのかどうかは私自身分からない。
でもこれで症状が良くなっていたりするので、いいのかな、とも思う。
感じようとしている訳でもなく、勝手に感じてしまうので、結構今までどう扱っていいものか悩んだのだが・・・。
(これが無視出来ないぐらい感じるのですよ。)

私の母方の祖父も治療家で、手技専門だったのだが、同じような感覚派で、実際に医者から見放されたような患者さんも治して、信者みたいな患者さんがいっぱいいた。
全盛期には、料金は相場ぐらいで、一人で月に300万ぐらい稼いでいたらしい。
逸話がたくさん残っていて、手で触るだけで、病名や余命を当てたりして、ちょっと神がかりっぽい感じのところもあった。
当時まだ子供だった私は、自分が将来治療家になるとは夢にも思わず、胡散臭い目でみていたものだ。
私が治療家を目指した時には、残念ながらもう亡くなってしまっていたんだけれどね。

まぁ、祖父と神社に行ったりすると、「あそこに何々の神様がいる。」とか言い出したりするもんで、そういったものを信じない私にとって、祖父はかなり胡散臭かった訳です。
ちなみに、私はテレビに出てくる霊能力者という方達も信じていないので、なぜあの人達がもてはやされているのか全く分かりません。

私は体というものがあるから、この世界に居る意味があるのだと思うし、あの世とか前世とか来世とかよりも、今存在するこの世界、そしてこの瞬間(現在)に自分が何をどう選択をして生きていくかが大事であり、興味があるからです。
実存主義でいう、「人間とはこの世に投げ出された存在」といった感じだろうか。
まぁ霊がいようがいなかろうが、そのような観点に立つ事は私にとってはどうでもいい事で、それよりももっと大事な事があるという訳です。

話が大分脱線してしまった。
治療をしていて患者さんの体の通りがよくなると、私の手からも、とても気持ちの良い波動が伝わってくる。
もちろん、逆に嫌な感じなのが溜まっている時は、なんともいえない嫌な感じや、ビリビリして手が痛かったり、気持ち悪くなって横になりたくなったり、などもある。

でも、それが治療をして、気持ちの良いものに変わった時に、手や鍼先を通して、私の中にもとても気持ちの良い世界が広がっていく。
それはなんとも形容しがたい感覚だ。
一人の時では味わえない、相手がいるからこそ感じる感覚である。

物凄く気持ち良くて、異次元空間に入ってしまったような感じを受ける時もある。
感覚はその時その時で違っている。

まるでオーケストラの演奏が流れ出すようだと思った時もあるし、パステルカラーの世界に突入してしまったようなイメージだったり、気持ちの良い空間が流れている所を漂っているような感じだったり、どこかへ飛んで行ってしまうような感じになってしまったりする。
実際治療をしていると、患者さんの体が宙に浮いてくる感じを受けたりする。
ちょうどマジックショーで宙に浮いている感じである。

この感覚は、治療をしている時だけに感じる、何物にも代えがたい貴重な感覚だと思う。

治療家の意見として、よく患者さんが喜んでくれるのが嬉しくてこの仕事をしているというのがあるが、確かにそうだと思うけれども、正直に言うと、私は治療の時に受けるこの感覚が、治療をしていて、一番楽しくて面白い。
もちろんこの感覚が全てとは思わないし、理論も大いに大事であって、実際理論のみで治している方達には尊敬の念を抱いているが、これがなくなってしまったら、とても寂しいし、面白みが減るだろうな、と思う。

この感覚は、治療に大いに醍醐味を与えてくれていると思う。

(この感覚の話は、治療家の中でもたぶん少数派で、実際の現場でこういった話をしている人はほとんど見かけないし、この手の話は専門家の間ではちょっとし辛い空気があります。
似たような感じの事を言っている方達はいるのだけれど、私と大体同じような感覚の話をしている方には、ちょっと寂しいのですが今の所は実際にお会いしたことはありません。
みんな怪しい人だと思われるのが嫌で黙っているのか、感じているけど話す程ではないと軽視しているのか、分かりませんが。
まぁ普通は理論を大事にしているのだと思うし、祖父が一番近いのではないかな、と思います。
科学的じゃなくて、ちょっとオカルトちっくな感じだもんね。
でも、東洋医学は元々科学的ともいい難いものなのだけれどね。)

(終わり)

治療時の感覚は、本当に素晴らしい感覚です。
そして、治療中にその感覚に浸れるのは至福の喜びなのです。
(例え妄想や幻覚だとしてもね(笑)←ちなみに普段幻覚や幻聴などはありません。)
ていうか、まぁやっぱ胡散臭い話ですかね・・・(´д`;)
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昔書いた治療の感覚(1)

2009.01.18(14:02)
診断前に書いた治療の時の感覚の話を、そのまま転載します。
長いので二回に分けます。

(ここからスタート↓)

さて、治療中の感覚と一言にいっても、いざ書こうとするとどの話から切り出せばいいのか悩むものだ。
あまり推考していると時間がかかりそうなので、思い出した順に書いていこうと思う。

患者さんを治療していて、なんと言っても一番楽しいのは、患者さんの体から色々と感じることだ。
鍼とマッサージだとまた感じる感覚もちょっと違ってくる。

これは、鍼もマッサージも同じなのだが、まず触った時に、手が引き寄せられる感覚がある。
体から「ここですよ。」と呼ばれているような感じだ。

例えば鍼の場合だと、本などの知識から、ここの穴(ツボ)を使おうと思ったとしても、どうしてもそこが気になって仕方がない、呼ばれてしまう・・・といった感じだ。
そこは感覚のイメージでいうと、滞っている感じ。
色でいうと黒っぽい感じ。

実際に、鍼を刺した時に、機関車から出てくるような黒い煙がもやもやと出てきた所を見たこともある。
その後、そこの痛みは消えてしまった。

マッサージをしていても、触った時に、この奥になんかあるな・・・というのを感じる。
ここがつまっている(滞っている)な、とか。
そこがつまってしまっていて、全身が大きく上手くまわっていないというか、滞ってしまっているのだ。

そして、気になる所に鍼などをすると、流れがよくなるのが分かる。
実際、鍼を刺す所は、イメージ的には、地下水が流れている場所に繋がっている井戸のような場所に刺す。
井戸は地下水につながっていて、そこを刺激すると、滞っていた地下水が綺麗に流れ出す・・・といった感じ。
マッサージをしていても、流れていくのが分かる。
(これの事を「気」と呼んでいるのかな、と思ったりする。)

惹かれる場所は、手の感触でもあるけれど、目からも感じる。
目で見ても、ここが気になる、とか流れたな、とか分かったりする。

ただ、実際手で治療をしている時は、手の感覚に集中したい為だと思うのだが、大体自然と目をつむっている。
目をつむっているけれど、頭の中にはイメージが見えている。
そして、手から患者さんの体からの感覚が流れ入ってくる。

つまっていたのを、治療してうまく通すことが出来ると、患者さんの体の光り具合が変化する。
より明るく光るようになる。
憑き物が取れたようなスッキリした感じだ。

目をつむっていても、光るのを感じたりする。
この間、目をつむって頭のマッサージをしていたら、つむっているのに、まぶたの中で後光が射すように光ってビックリした。

そうなると、取れたなと思って治療は一応終了する。
(全身うまく流れると一番良い。)

人間は一度に感じる痛みなどは限られているので、一つの痛みが取れても、今まで他の強い痛みのせいで感じていなかったまた違う痛みが
表れたりしてキリがない面もあるのだが、一度にたくさんやり過ぎるとかえって疲れてしまうので、治療は継続的に徐々にやるのが理想である。
つい全部気になる所を取りたくなってしまうのだけれどね。

(続く)
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昔書いた感覚の話(3)

2009.01.18(13:56)
また診断前に書いた感覚の話を、今読み返すとおかしい部分もあるように思いますが、一応そのまま転載します。
例によって長いです(汗)

(ここからスタート↓)

いつも感じている世界がある。
そこはとても穏やかで気持ちの良い空間だ。
感じている間、周囲の物達は優しく佇んでいてくれる。
私はそれらと友達になる。
そこはありきたりな言葉で装飾するなら、希望や愛とも表現する事も出来る世界。
そこでは現実社会の出来事や思考は一切関係ない。
現実社会の存在と無関係という訳ではなく、それらの事情などは超越しているような感じだ。
私はただ、今自分が存在するこの世界を、感覚を研ぎ澄まして感じる。
世俗的な私は居なくなり、感覚にのみ身を任せる。
大きな流れと共に私は流れていく。

そこは単純な世界だ。
何もないようだけれど、実は全ての根本が詰まっているようにも思える。
私には本質的な世界だ。
そこには、今存在するこの世界の答えがあるように思える。

単調なリズム、ある一定の音、体の動き、言葉の破片、それらはその世界に直結している。
それはまた変化もするし複雑にも見えるけれど、根本的な所では単純そのものだ。
(リズムや音、また動きや言葉は装飾して芸術になれると思う。)

ふとチャンネルを切り替えるように、スイッチを入れると、たちまちその階層に入る事が出来る。
そこにいる時が一番幸せだし、心地良いし、生きている実感が沸く。

どこにいても、どのような社会的立場でいようとも、関係ない。
その世界が根本であり、究極的には全てである。

やはり一人でいる時の方が邪魔されないし、感じやすい。
家にいようと外にいようと、その世界を感じられれば私は幸福である。

思春期の頃は、同じような価値観の人を探したりもしたけれど、ある日ナルシストかと思ってやめた。
今でもこれが単に何か脳内物質が出ているのか、脳の何かの機能によるものなのか、単なる勘違いや妄想なのかは分からない。
ただ、とても居心地が良くて気持ちの良いものだし、私に元気とか希望を与えてくれるものだから、特に何であろうと構わないと思っている。

しかしたまに思うのだ。
皆は感じていないのだろうか。
なぜこの感覚の話をする人はいないのか。
私にとっては重要なことだが、話題にする程ではないと思っているのか。
もしくは人によって感じ方が全然違うのか。
本当に大いに謎なのである。
いわゆる芸術の世界や、悟りの世界、また臨死体験などは近い感じもするのだが。

もしこの世界を共有しながら誰かと会話を出来るのならば、ほんの少しの言葉と動きで足りる。
ただ、そっと笑顔を向けてくれるだけでもいい。
その等身大のあなたから、私は充分に感じることが出来るから。

現実社会では同じような話をする人にはなかなか会えないが、本の中にはたまにいて、私は嬉しくなる。
彼らに親近感を感じる。

こういう感覚の話に、宗教やオカルト風の味を付けてしまう人がいるけれど、それには抵抗を覚える。
変に脚色したり、勝手に既存の価値観(名称)に当てはめないでもらいたい。
それは言葉にするのが難しい世界なのだから。
音にも意味があるのだから。

一時、体がなくて精神だけの方がいいと思ったこともあったけど、今は体があるからこそ、この世界に留まって関わっていられるのであるから、今は体があって良いのだと思っている。
(私は霊体とかには興味がないし特に信じてはいない。前世とか来世とかも意味が分からない。)

元気のない時や混乱した時は、リズムを取ったり、気に入った音や言葉を浮かべてみる。
また実際に体を一定のリズムで叩いたり、手触りの良い布をなでたり、お気に入りの匂いを嗅いだり、キラキラ光るビー玉に目を凝らしてみても良い。
そうすると楽しくなってくる。
万人向けじゃないかもしれないけど。

ちなみに世界中の人々がこの感覚を味わっていたら、世界はもっと平和になるに違いないと思っている。

(終わり)

言葉の響きには意味があると私には思える。
音や音階に、とても意味を感じるのだ。
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昔書いた感覚の話(2)

2009.01.17(19:49)
(1からの続き)

分かりやすい例としてたまに人に話す経験談があるのだけれど、それは大学生の頃の話で、今まででこの感覚を一番明確に感じた時の事だ。
放課後、大学構内の空き教室で人を待っている時にそれは起きた。
教室には何人か人がまばらにいて、私は教室の前の方に座って、なんとはなしにぼーっとしていた。

すると、突然目の前がぱーっと明るくなって、光が前方上空からきらきらと降り注いできた。
そして、私という個は完全になくなり、この宇宙全体と一体化したように感じた。
それは至福の喜びであり、今まで経験した事がない程物凄く気持ち良い経験であった。

その瞬間私は「私はこの為に存在しているのだ。」と心から強く実感した。
感激で胸がどきどきした。

・・・このような強烈な体験は以後ないけれど、それと同じような感覚は感覚のセンサーを開けばいつも感じる。
全てがあり、全てがない世界。
言葉で文章化するより、音階やリズムや踊りや絵や詩などの芸術的なもので表現した方が適切だと思う。
実際私は芸術はあの世界から来るものを表現しようとしているのだと思っている。

光が降ってくる場面では、ジャンヌ・ダルクなどの話に出てくる神が光臨するっていうのはこういう感じなのかな、と思った。
私は無宗教で、オカルトや霊的なものも一切信じていないので、特に脚色する事もなく単なる現象としてしか捉えなかったけど。

それに、脳というものは元々いろいろと誤作動も起こすものだし、幻覚や幻聴とかも普通にありえるので、大げさに考えたくないと思っている。
ただ単に私の脳はそういう感じを知覚しやすいですよ、といった感じで。
もしかしたら、私は脳内に快楽物質などが流れやすいのかな、とも考えたりする。
それか、もしくは共感覚みたいに、ある感覚に付随して他の感覚が同時に誘発されやすいような面があるのだろうか。

まぁ定義は本来どうでも良いのだけれど、この感覚がとても素晴らしく気持ちが良いものだということや、私にとってこれらの感覚を感じるということは大いに現実的であり真実だと思える、ということである。

一体化する感覚も意識するといつも感じる。
物と一体化するのもとても気持ち良い。
私は一時、人間よりも物質の方が好きな時があった。
物質は常に一定で、とても優しい感じがするからだ。
よく「壁に入りたい」などと本気で考えていて、実際に周囲の人に言ってひかれたりもした。
今でも物質は好きだし、好きな物質とかがある。
手触り感とか、匂いとか、いろいろな要素があるけれど、その物から感じる波長とか心地良さも基準になる。
もちろん植物や動物も好きである。
とくに木が好きだ。
近くにいくと安心する。
好みの木だと特に。
この辺の感覚は、以前読んだ本の著者で、高機能自閉症のドナ・ウィリアムズという女性とも似通っている。

またこのような感覚は、実際人を治療する時にもとても面白く作用する。

(↑終わり)

うーん、分かりにくい文面ですかね、やっぱり。
言葉にするのって難しい・・・。
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昔書いた感覚の話(1)

2009.01.17(19:45)
感覚の話を書くと銘打っておきながら、ちっとも書いていないのだけど(笑)、診断前に違う場所で書いた感覚の話がいくつかあるので、とりあえず載せてみることにした。
てか、今改めて見てみたら、めちゃくちゃ長くて要領を得ない文章だと我ながら思いました。
(うーん、色々な話を一度に詰め込み過ぎっていうのもあるんだな・・・。)
載せといてなんだけど、自分でもあまり読む気がしないので、来て下さった方はわざわざ読まなくてもいいです(汗)
もし興味が出たら、適当に流し読みして下さい。
長いので2つに分けます。
(ここからスタート↓)

よく不思議に思うのだが、皆どのような事を感じながら生きているのだろう。
私は物心ついた頃から、自分の感じる世界を持っている。
それは何とも言葉では表現しにくいものなのだけど。
誰でも各々が感じる世界観があるのだろうけど、今のところ私の周囲では私と同じような感覚を持っている人は皆無に等しい。
世界中には結構いるのではないかと思うし、実は言わないだけで同じように感じている人もいるのかもしれないけれど。

子供の頃から現実感がなくて、怪我をすると生きているのだな、と感じたりしていた。
ここでいう現実感というのは、社会的に具象化された出来事を感じる力といえばいいのだろうか。
うまく言えないけれど、人と人とのコミュニケーションの中で学んだ現実世界というものが、実感としてよく分からなかったりするのだ。

例えば、これは○○、このような出来事は××・・・といった具合に、毎日の生活というものは、通常は自動的に通俗的な概念をもってして実感されていくのだろうと想像されるのだけど、それがあまり実感出来ない。
子供の頃は日常は目というフィルターを通して、まるで映画を見ているような感覚だった。
実はそういう人々も結構いるのだろうか。

社会通念は実感としてよく分からないけれど、この世界は私には通俗的な世界観とはまた違った感じに映る。
皆感じているのだろうか。
言葉に出来ないあの感じ。

そのモードでいると社会で生活するのがちょっとしんどいので、普段はあまり意識しないようにしている時が多々あるのだが、意識のスイッチを切り替えるとたちまちその世界に埋没する。
そこはとても気持ちの良い世界で、一番自分らしくいられる世界だと思う。

一切の生活上の細々とした雑多な思考を取り止めて、感覚だけに埋没するという感じだ。
感覚に集中する。

そうすると、様々なことを感じる。
この世界は、粒子のようなとても細かい粒々が集まって出来ていて、それが色々な形を作っていて、それらは常に流動的に動いている。
その動き流れている感じがとても気持ち良い。

粒子と表現するのが的確なのかどうか分からないけれど、常に自由に動いて形を変える、小さいけれど全体から見たら大きかったりするような感じで、そしてその動きの渦がとても心地よいと感じるのだ。
私は自分では覚えていなかったが、中学の頃「原子になりたい。」と友達に語っていたそうである。

それを感じている時は、いわゆる世間から見える概念としての自分という存在は消えて、私も一緒にそこで流れ出す感じになる。
そこに身を任せるのは、本当にとても気持ちが良い。

あの世界をなんと表現すれば良いのか、難しいけれど、私はそこに名前や特定の概念を押し付けたりはしたくない。
そこは常に流動的に変化しているものだし、ただ感じる、それだけのことでしかないのだ。
変に脚色したり、小難しくしたくない。

(続く)
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ブログの修正について

2009.01.17(13:38)
このブログは、ブログなので日記なんだけど、HPみたいな気持ちでやっています。
また、何度も(しつこいぐらい(笑))言ってますが、私は文章を要領よくまとめて短く書くのが苦手だし、手本がない状態で何かをやるのも苦手で、また頭の中で言語で秩序立てて考えるのも苦手で、すぐ混乱してしまうので、後から改めて見るとおかしいなと気付くことが多いです。
(苦手のオンパレードだな(笑))
あまり考えずに、勢いだけでやってることも多いし(笑)

なので、気付いたらすぐ修正や削除をしています。

そういう事情で、ブログ内の記事や、カテゴリー、また文章が予告なくどんどん変わると思いますので、あらかじめご了承下さいませ。

勝手ではありますが、自分のブログなので、やりやすいように、好きなようにやらせてもらおうと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
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カテゴリーの説明

2009.01.06(13:48)
カテゴリーの説明です。
試行錯誤中な為、たぶん変更が大いにあると思います。
(注:対策というのは、私自身が行ってきた、またしようと努めている対策の話であり、周りに勧めている訳でも、また万人向けの対策という訳でもありません。)

◇プロフィール・・・私の簡単なプロフィール。

◇ブログの説明 ・・・このブログについての説明。

◇4コマ漫画・・・私が描いている4コマ漫画です。

◇感覚の世界の話 ・・・常日頃感じている感覚の世界の話。

◇治療の感覚 ・・・鍼やマッサージをしている時の感覚の話。

◇発達障害の診断・・・発達障害と診断されるまでの経緯や成育歴など。

◇発達障害の考察・・・発達障害への自分の考えや、感じたこと、ちょっとした知識など。

◇対策・・・自分が立てた対策。基本的に自分使用なので、万人向けではありません。

◇自分の特徴・・・自分で気付いた特徴。

◇困りごと ・・・またやっちゃった的な日常の色々な困り事の話。

◇色々な持論・・・好き勝手に語る時論。長文が多いです。特に誰かに向けてのメッセージではありません。

◇詩や創作絵・・・思い付きで描いた詩や絵。

◇雑記 ・・・単なる雑談など。

◇好きな本・・・昔読んだ思い出深い本など。
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このブログについて

2009.01.06(13:06)
このブログは2008年12月29日に始めました。

ブログの目的は、自己の内面を文章化することの効能と、出来たら他者との交流、それから対策など自分の為の覚書き、ストレス発散、といったところです。
それから、自分と同じような感覚の人に巡り逢えたら・・・というような淡い期待も抱いたりしています。

プロフィール欄でも書きましたが、私は文章を書くのがあまり得意ではありません。
思考がすぐにあちこち飛ぶし、どうも説明しようとすると、一から詳細に説明するはめに陥ったりして、文章が長くなってしまいます。

ここではなるべく簡単にまとめて短い文章を書きたいと思っていますが、以前違う場所でも散々たる結果となっており、難しいかもしれません。

しかし、ここはカテゴリ別に書けるし、なんとか努力したいと思います。
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診断を受けた理由

2009.01.06(12:31)
これから診断を受けようか悩んでいる方の為に、僭越ながら私の体験を記しておこうと思います。

まず、診断を受けようと決意したのは、去年のことです。
小さな頃から、変わってる、ユニークなどと言われてきた私ですが、自分ではどこが変わっているのかちっとも分からなかったし、母親も「あんたは普通だ」と言っていたので、さほど気にしていませんでした。

ただ、人間関係がうまくいかないことや、色々なことでバイトを首になったり、仕事が続かなかったり、などということはよくありました。
でも、それは、私が一般常識が足らない人間であり、集団行動が苦手だから、などと思っていました。

それが、結婚をしてから、旦那に「変わっている」などと言われるようになり、自分でも変わっているのかなと自覚をするようになりました。
旦那は、一般常識をしっかり持った、人間関係も円滑にこなす、まともな人に思えたので、旦那との比較対照をしているうちに、自分の視点が多数とは少しズレていることに気が付きました。

また、自分は感覚的なものがとても好きで、感覚の世界に没頭しているのが一番幸せなぐらいなのですが、同じような感覚の人に会ったことがなく、初めて同じような感覚を持つ人を目にしたのは、海外の高機能自閉症者が書いた本の中でした。
その時は、自分は自閉症だとは全く思わなかったし、自閉症で同じような感覚の人がいるのだ、ぐらいの感想でした。
また、自閉症といっても種類があるのだということも知りませんでした。

でも、鍼灸をしている時にも、独特の感覚を感じたりするのだけれど、他の鍼灸師でそんな人は見当たらないし、それがなんなのか知りたくなりました。
(気功とか精神世界系の人達がちょっと似てるんだけど、自分はそういうのには興味がなく、ちょっと違うなと思っていました。)

そこで、この感覚の由来が知りたいのと、ついでにちょっとズレている原因も知りたいのもあって、発達障害者支援センターへ電話をして、病院を紹介してもらい、診断を受けました。

・・・ふぅ、文章化するの難しいですね、やっぱり。
一応短くまとめたつもりです(笑)
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簡単なプロフィール

2009.01.06(12:01)
性別:女性
職業:鍼灸師(はり・きゅう・按摩・マッサージ・指圧の国家資格持ち)
住居:関東地方
(既婚・子供はいません)

鍼灸師の資格を持っていて、一応役所に届けなども出しているので、書類上は自営業(出張業務)となっているのですが、色々あって現在ほとんど働いておりません。
頼まれた時などだけ、仕事をしています。

旦那の稼ぎに甘んじて、ほぼ専業主婦状態です・・・。
どこからか依頼があれば、出張致します(笑)

2008年の暮れに、医療機関にて発達障害の一つであるADHDと診断をされました。
感覚がどうやら人と違うところがあるようで、その辺を書いていきたいと思っています。
他にも、自分にとっての覚書きや、どうでもいいことも書くと思います。

自己満足の為に始めたブログなので、読みにくかったり、第三者に有益な情報を書くことなども出来ないかもしれないとは思いますが、適当にお付き合い下さいませ。

(※1)
ADHDについては、リンク先を参照して下さい。
本人は発達障害にこだわってはおらず、また発達障害に悪いイメージもありません。
診断名よりも、自分の特性を知ることが大事かと思っています。
ちなみに、周りからもADHDの特徴らしきことを指摘されるので、ADHDの症状には当てはまるかな~と自覚はしています。

(※2)
私は文章を書くのが、さほど得意ではありません。
頭の中で、イメージで捉える傾向があるので、文章化をするのが苦手です。
また、気分にムラがあって、その時の気分によって文体が変わることもあります。
話が飛び易く、ぐだぐだと長文になりがちで、要領よくまとめた分かりやすい文面とはいえないことが、多々あると思いますが、どうぞよろしくお願い致します。

(※3)
更新や、コメントの返事、また他のブログにお邪魔をしたりするのに、時間がかかる場合があります。
どうにもムラがあるのと、色々と器用にこなせない為、なかなか出来ないこともありますので、どうぞご了承下さいませ。

(※4)
私はADHDの代表的なタイプという訳ではないと思いますし、ADHDといっても個人差はありますので、私の記事や漫画を見て、ADHDとはこういうものかと単純に思わないようご注意をお願いいたします。
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プロフィール

空海もけ(そらみもけ)

Author:空海もけ(そらみもけ)
ADHDの鍼灸師。面倒臭がり屋でふざけるのが大好き。着ぐるみ脱ぎました。
(詳しくはカテゴリーのプロフィール欄を参照。)

もち
・もち
もけの夫。
背が高くてよく食べる。
お煎餅が大好き。

ゲコ
・ゲコ
近くの川に住む蛙。
よく合いの手を入れる。
留守番もしてくれる。

ポンチン
・ポンチン
もけが実家で飼っているマルチーズ犬。
(本当はふわふわモコモコ。)
一緒に住んでいないが何故か登場する。

※漫画の内容は、事実を元に多少脚色してあります。

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