[もけの部屋]色々な持論

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  2. 定型という名の亡霊(04/01)
  3. 概念的な世界と具体的な世界(03/20)
  4. 診断名と人格は別なものだ(03/19)
  5. 発達障害名は免罪符ではないはずだ(03/18)
  6. 情報の選択能力(相手の意図を読み間違えるのは何故なのだろう)(03/17)
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定型という名の亡霊

2009.04.01(14:08)
(※えー僭越ながら、また言いたいことを勝手に言わせてもらいます。特定の誰かを想定している訳では決してありません。もし気分を害された方がいらっしゃいましたら、誠に申し訳ありません。)

『発達障害』ということを考える時、『定型発達』という言葉は付き物のように思う。
定型発達という多数派との比較により、少数派である発達障害という概念が、浮かび上がる訳だから。

だけど、一言に『定型』といっても、それはもの凄く曖昧で、幅広い概念だと思う。

そもそも、定型ってなんなんだ?
定型ってどんな人?
定型にモデルってあるの?
・・・詳細は謎である。

なんとなく、『定型』という名の妄想が、亡霊と化しているようにも思えるのだ。

もし『定型』の基本モデルがあったとしても、その通りの人なんて滅多にいないのではないかと思ってしまう。
発達障害者が、人それぞれ個人差があって違うように、定型発達者だって一人一人全然違うはずだ。

定型発達者が発達障害者に偏見を持つことがあるように、発達障害者も定型発達者に偏見を持つことがあるように思う。

以前にも触れたことではあるが、『定型』や『発達障害』というものに、あまりこだわり過ぎると、余計なフィルターを付けて物事を見てしまうことにならないだろうか。
つまり、個人を見るのではなく、まず『定型』や『発達障害』という、枠組みで見てしまう。
色眼鏡で見てしまう、ということ。
最初から偏見で見てしまうかもしれない、ということ。

私は、やはり、発達障害だから大変だとか、定型の人は楽々やっているのだろうとか、考えるのは好きではない。
定型だって、大変な人は沢山いる。
程度は違うかもしれないが、同じような苦労をしている人もいるかもしれない。
得手不得手が違うだけで、発達障害者とはまた違う苦労をしているかもしれない。
隣の芝生は青く見えているだけかもしれないのだ。

日本は自殺者の多い国でもある。
悩み苦しんでいる人々は、世の中に本当に沢山いるのだと思う。
私に関していえば、一応生活を送ることは出来ており、この先どうなるかはもちろん分からないけれど、十分幸せだと感じている。
こうして、自由に発言も出来るし、どこで何をするのも自分の意志ですることが出来る。
私は、精神的にも社会的にも、とても自由な立場でいられることを、心から尊いものであるとし、感謝している。

・・・と、どうも話がすぐ脱線してしまうな~。(どうもすみません(汗))

『定型』といっても、考える人によって、それぞれが微妙に違うものを想定しているのではないだろうか。
定型は、スーパーマン(ウーマン)じゃない。
定型だからって、簡単にこなしている訳でもないのかもしれない。
全ては、その人の胸のうちにある。
そして、発達障害者の方が優れていたり、幸せな面もあるかもしれない。
それは、個人個人の問題である。

優秀な定型像と比較をすれば、発達障害のマイナスだと思われる面がより際立って映り、必要以上に劣った存在だと認識をしてしまう可能性もあるように思う。
比較をする対象によって、程度は変化をするのだから。

『定型』だから・・・と型にはめて見るのも、一種の偏見であるかもしれない。
そして、もし差別に対して抗議したいのであれば、他の差別に対しても、鈍感であってはならないと思う。
そうでなければ、それは単なる利己主義なのではないか。
ちなみに、これは、あくまでも私の個人的な意見であり、正しいわけでもなく、誰かに促しているつもりも全くありません。
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概念的な世界と具体的な世界

2009.03.20(18:23)
どうやら大多数の人々は、この世界を概念的に捉えているということらしいのだが、これは私にとって大事なキーワードだということに、改めて気が付いた。

以前にも触れたが、私も概念的な世界を、知識として理解することは出来るし、社会生活ではそのように振る舞っている。
もし目の前の情報を細部まで細かく全て受け取って処理していたとしたら、情報処理には多大な時間と労力がかかるであろうし、その場で大多数が取るべきであろう選択(行動)まで到達するのは難しくなり、日常生活はスムーズに進まないだろう。

通常、外部からの情報は、細部をぼかして大まかに把握できるよう、脳が勝手に選択し、処理をしてくれる。
(自分の好きな情報を、無意識に選択して、受け取っていたりもする。)
これは、発達障害者であっても、能力には個人差はあるだろうが、ある程度行われていると思われる。
でなければ、基本的な日常生活を行うのですら、かなり困難になるだろう。

最近、発達障害に関わらず、大多数の人々は、やはり概念化された世界で生きているのではないだろうかと感じている。
知能がある程度ある者は、言葉で形容し得るような概念的な世界に生きているように私には見える。
(もしかしたら、その状態は本人にとって不本意なのものなのかもしれないし、概念的と具体的の二重の世界に生きているのかもしれないが、そういったものは、外からは計り知れないものである。ちなみに、私も二重の世界で生きているのだと思う。)

だからこそ、人間関係で悩んだり、概念的な幸せに一喜一憂したりするのではないか。
自己を他者と比較して、安心したりするのではないか。

しかし、人間とは、本来概念的な存在なのであろうか。
社会は、概念的なものでのみ成り立っているのであろうか。
私にとっては、本質的にはそうではない。

これは、言葉で言い表すことは、大変難しい。
ただ、概念的な世界しか知らないなんて、つまらないと私は思う。
直接的、具体的な世界を感じられないなんて・・・。

でも、知らなければどうってことはないだろう。
人は、それぞれが皆、違う世界に生きている。
人間の数だけ、世界がある。
それらは、一瞬交わったように思えても、決して交わることはない。
生まれてから死ぬまで、人は自分の世界の中だけで、独りで生きているのだ。

外の違う世界を知りたい欲求はとてもあるけれど、私の世界も大事にしていきたいと思う。
しかし、皆が何の為に、何を根拠に生きているのか、私には大いに謎に思えてならない。
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診断名と人格は別なものだ

2009.03.19(13:28)
発達障害者は、発達障害の症状だけで成り立っている訳ではない。

また、発達障害の症状も、人によって、強弱や、有無がある。

発達障害とは関係ない、その人が本来持っている、知性や教養、また人格も、その人の人となりを決定している。

定型発達者だって、人によって中身は全然違う。
発達障害者だって、人によって中身は全然違うのだ。

診断名にこだわって、人間が本来持っている性質までも、拡大解釈して障害に結び付けていることはないだろうか。
人格までも、障害由来にして、障害というフィルターを通して色眼鏡で見ていないだろうか。

発達障害は、その人の一部の特徴でしかない。
必要以上に、発達障害にこだわる必要もない。

発達障害の症状に、人格まで支配されている訳ではないのだ。
人格は、その人が経てきた体験や、受けた教育、学習した内容などで決まってくる。
どのような人間が周りにいたか、という影響も大きい。

また、生まれ持った気質もある。
遺伝的な要素もあるだろう。

発達障害に関わらず、人格は育てて成長出来るものだと私は考える。
昨日も言ったように、生まれっぱなしの好き勝手な状態では、社会では生きにくくなるだろう。

人格には、家庭環境の影響も大きい。
しかし、家庭に恵まれなかったとしても、皆が皆、反社会的な人格になる訳でも、良心が欠けている訳でも、共感能力が劣っている訳でもない。

私は、外に向かって開かれているか、というのが重要ではないかと思う。
つまり、捻くれた態度で難癖を付け、自己の考えに固執していたのでは、成長はない。
どうせ・・・という諦めの態度からは、卑下た態度や自己憐憫、恨み言しか生まれない。

向上心がないというのは、悲劇的だ。
たとえ良い師に出会えなくとも、本がある。
学ぼうと思えば、いくらでも学べる。
成長は少なからず出来る。

人間は、生れつき知識を持っている訳ではない。
外へ心を開いて、学ばなければ、知識は持てず、成長も出来ない。

発達障害という枠に囚われず、人間として成長をし続けることが、その人自身や、周りの人々、ひいては社会にとってもプラスになるのだと思う。

情報の選択には、気をつけなければならないが、学習を積んでいけば、選択をする目も養われると思う。
くだらない情報に踊らされない為にも、日頃から良質な情報に触れていた方が良い。
私は、色々な本を読むことを勧めたい。
書評はサイトで見られるので、よく分からない人も、それを見て選ぶことが出来るだろう。
知的好奇心は、人生に、更なる喜びを与え、より一層の深みを増してくれることだろう。

話が多少脱線してしまったが、発達障害と人格は、別の問題で考えた方がいいと私は考えている。
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発達障害名は免罪符ではないはずだ

2009.03.18(22:31)
(※これは単なる私個人のぼやきであり、特定の個人を想定している訳ではありません。)

発達障害者だからといって、何をしてもいい訳ではない。
診断名をもらったからといって、何をしても許される訳ではないはずだ。

発達障害者は、罪を犯しても許されるのか。
他人に危害を与えても見過ごしてもらえるのか。
他人に不快感を与えてしまってもしょうがないのか。
・・・そんなことは決してない。
社会に住む以上、社会のルールやマナーは、守らなければならないのだ。

出来ないことを前面に押し出すのは、簡単なことだ。
でも、出来ないことがあるのは、発達障害者ではなくとも、よくあることだ。

皆が、出来ないからと開き直って、好き勝手にやっていたら、この世は無法状態になってしまうだろう。
そこが、住みにくい世界であろうことは、容易に想像が出来る。
各々違う人間が集まる以上、最低限のルールやマナーは必要なのだ。

確かに、発達障害故の困難さはあると思う。
しかし、社会生活が送れる程の知能があるのならば、最低限の人としてのマナーや、社会的ルールは学習出来るのではないだろうか。

「私には分からない。」
「私には出来ない。」
そう言ってしまうことは簡単だ。

しかし、そう断言してそこで思考を止めてしまったら、そこからの発展は全く無くなってしまう。

分からなければ、人に助言を求めたり、本やネットで調べることも出来る。
出来ないと思っても、訓練をすれば、少しは出来るようになるかもしれない。

最初から、何かを始める前から、自ら、可能性の芽を摘むことはないのだ。

そして、人間が社会的な存在である以上、嫌であろうと社会のルールは守らなければならないし、社会の風潮にもある程度従わなければならない。
発達障害者でなくとも、人は色々と我慢をして、世の中の諸々のことに従っているのだと思う。

発達障害者だけが特別な存在である訳ではないし、恩恵を受けられる訳でも、許される存在だということでもない。
社会で生きている以上、必要最低限の、社会で生きる術は身につけなければならないと思う。
誰だって、生まれっぱなしの状態で、自分勝手には生きられないのだ。
嫌でも世の中の仕組みに従わなければならないのだ。

そして、それぞれが自分に合った社会との折り合いの付け方を、探して訓練していけばよい。
他人の言うことを気にし過ぎると自己を見失うが、気にしなさ過ぎると今度は周りを見失ってしまうだろう。

くどいかもしれないが、誰しも自分一人で生きている訳ではない。
社会の恩恵を受けて生きている。
その恩恵を受けている以上、社会のルールやマナーは守るべきものだと思うのだ。
簡単に出来ないのだとしても、それは他人を傷付けたり、不快にする理由にはならない。
それすら自覚出来ないのだとしても、自分とは異なる他人の意見に耳を傾けることは出来るだろう。
人間は社会に生かされているのだということを、忘れてはならないと思う。

『自分が絶対に正しい』などということは、社会的には有り得ないと私は思う。
たとえ、その人の世界の中では正しいことだとしても、他の人の世界では正しくないこともあるのである。
皆が皆、違う世界(視点)で生きているからこそ、他人の意見(異なる視点)は貴重なものとなるのである。
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情報の選択能力(相手の意図を読み間違えるのは何故なのだろう)

2009.03.17(22:31)
物事は、その中の要素の、何を、どのように見るか(どの情報をどう選択するか)によって、意味内容がかなり異なってくる。
簡単な例え話で恐縮だけど、四角錐(ピラミッドの代表的な形)は、横から見たら三角形だけど、上から見たら四角形だ。
このように、視点を変えれば、見方はまるで変わってくる。

このことを踏まえた上で、相手の意図を読み間違えるということが、どうして起こるのかを考えてみたい。

1、思考体系が相手と異なる。
相手の意図を、自分に置き換えて推察してみても、自分が相手とは違う思考方法をしている場合、相手も自分と同じ考えで言動すると仮定をすると、読み間違えることがある。

2、相手の言動の、注目すべき点を間違えている。
相手の言動の主要だと思われる箇所ではなく、どうでも良い細部にこだわってしまっていて、本当の意図に気が付いていない。

3、知識があまり無く、解釈する能力が低い。
人間の行動形態に対する知識があまり無い(人々が取る行動形式や意図の種類、どのような場面でどういう言動を取るかという組み合わせの知識が少ない)場合、推察する能力は低くなる。
人間の動機や感情、思考などに対する知識があまりないと、推論をしにくくなる。

4、感情に囚われやすい。
相手の言動を論理的、客観的に推察するよりも、感情が激しく動いてしまい、つい感情的な対応を取ってしまう。感情に支配され過ぎて、論理的思考が出来なかったりする。

5、相手の言動を拡大解釈してしまう。
相手の起こした言動を、軽く流したりせず、意味を追求し過ぎて、本来の意味(相手は軽い気持ちだったかもしれない)から遠退いてしまう。

6、言葉に囚われ過ぎる。
言葉をひとつひとつピックアップしては、意味を考え過ぎて、相手が込めた言葉に対する意味とは違う意味を、新たに付随させてしまう。

物事のどこを見るかが多数とは違う場合、場違いな解釈となり、しなくても良い苦労をしたりもする。
これは何故生じるのか。
脳の働きの問題も大いにあるとは思うが、私は知識の有無も関係していると思う。

自分の考えは違うかもしれないと考えられるかどうかは、そのような思考法があるということを知っているかどうかでも変わってくる。
(科学的知識や態度を持っているかどうか。)
思考方法は鍛えられるからだ。

また成育環境もかなり影響していると思う。
子供時代、どのような大人と身近に関わってきたかで、選択する能力は変わってくると思う。
偏った視点で育てられた場合、自然と偏った視点から見る習慣が身につくだろう。

私は、そもそも相手の意図は、正確に読めなくても構わないものだと考えている。
相手が何を考えているのかを推測するのは難しいことだし、分からなければ聞けば良いことだ。
(答えてくれるかどうかは分からないし、聞ける状況ではない場合もあるけれど。)

ただ、間違った解釈で、相手を攻撃してはならないと思う。
思い込みに支配されて、他人を差別したり侮辱したり罵ったりすることは、誰にとっても良いことにはならないと思う。

思い込みに支配されやすい人は、異なる意見を向けられたとしても、それは自分に対して、攻撃や叱責や否定をしている訳ではないということを、まずは知識として知っておくべきだと思う。
日頃から、様々な視点で物事を見るよう意識し、習慣化するだけで、大分違うはずだ。
自分が絶対に正しいと思う時も、疑ってみた方がいい。
迷った時は人に助言を求めれば良いし、本などで思考力は鍛えられる。
知識は得ることが出来るし、体得して習慣化することも出来る。

それから、良い意味で、いい加減さを身につけると良いだろう。
細部に囚われていると、本質を見失うことがある。
安易に動じない心や、受け流したり、受け入れるだけの精神力を鍛えることも、必要なことだろう。

感情は厄介なものだが、人間には理性がある。
長くなったので、感情についての問題は、またいつか記事にしてみたいと思う。
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プロフィール

空海もけ(そらみもけ)

Author:空海もけ(そらみもけ)
ADHDの鍼灸師。面倒臭がり屋でふざけるのが大好き。着ぐるみ脱ぎました。
(詳しくはカテゴリーのプロフィール欄を参照。)

もち
・もち
もけの夫。
背が高くてよく食べる。
お煎餅が大好き。

ゲコ
・ゲコ
近くの川に住む蛙。
よく合いの手を入れる。
留守番もしてくれる。

ポンチン
・ポンチン
もけが実家で飼っているマルチーズ犬。
(本当はふわふわモコモコ。)
一緒に住んでいないが何故か登場する。

※漫画の内容は、事実を元に多少脚色してあります。

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